攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

明智光秀と誠仁親王――あるいは「本能寺の変」の当事者

こちらもご覧ください!(広告掲載のご案内

f:id:kojodan:20210128103615p:plain

誠仁親王は正親町天皇の第一皇子である。幼くして天皇になることが定められた人であった。
そんな彼だが、じつは織田信長の猶子になっているし、元服の儀式は織田家の援助によって行われている。「麒麟が来る」でも描かれていたように、織田政権と当時の朝廷の密接な関係の裏付けになるだろう。
ちなみに、明智光秀も誠仁親王に関わっていることがわかっている。
1579年(天正7年)、誠仁親王が信長によって新しく造られた二条御所へ移徙(引越)する時に携わったのが光秀なのだ。光秀が織田政権で朝廷・公家関係担当として活躍したことがわかる事実でもある。

その誠仁親王は、信長と光秀が関わった一番の大事件にも巻き込まれている。1582年(天正10年)の「本能寺の変」である。
光秀の軍勢は本能寺で信長を死に追い込んだ後、その後継者である信忠の首を狙った。
この時、信忠はどこにいたのか――。彼は室町薬師寺町の妙覚寺を宿所としていた。本能寺襲撃の翌朝に事件を知った彼はどうにか本能寺へ向かおうとしたが、時すでに遅し。諦めた彼が向かったのが、勘解由小路室町――誠仁親王のいる二条御所で、ここに立て篭もって光秀の軍勢と戦おうとしたのである。

当時のエピソードが、宣教師による報告である「イエズス会日本年報」に記されている。こちらは「耶蘇会の日本年報」なるタイトルで国立国会図書館デジタルコレクションに収録されているので、興味をお持ちの方は是非ご覧いただきたい。なお「耶蘇会」はイエズス会の日本における古い呼び名である。
それによると、誠仁親王は光秀の元へ使者を送り、「自分たちは切腹するべきか」と問うたらしい。これに対して光秀は「そこを出るように」と伝え、誠仁親王は脱出して内裏へ向かった、という。このやりとりは信忠に随行していた織田政権の京都所司代・村井貞勝の進言であったと記されている。

この話をどこまで信じていいかは怪しい。
切腹は基本的に武家の習俗であり、天皇や親王といった皇族に切腹で死んだ人はどうも見当たらないからだ。
誠仁親王は信長の猶子になるほど武家と深く付き合ってきたからこのように言い出したのだろうか。それとも、異国人の報告だけになんらかの勘違いが混ざったのだろうか。
真実は歴史の闇の向こうである。

なお、信忠はその後も二条御所に立て篭もるもついに追い詰められ、自決して果てる。
その後、誠仁親王は豊臣秀吉とも関係を持ち、引き続き活躍したが、天皇になることはなかった。いよいよ天皇の位を正親町天皇より譲られる予定が定まったあと、亡くなってしまうのである。
結局、天皇になったのは彼の子で、後陽成天皇として即位した。死後、太上天皇の尊号を与えられ、陽光太上天皇と称せられた。

フィードバックのお願い

攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック

読者投稿欄

いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する