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【歴代征夷大将軍総覧】摂家将軍・親王将軍――鎌倉時代②

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高貴な血の操り人形

源実朝の暗殺によって、源氏の嫡流は途絶えてしまった。そこで鎌倉幕府を牛耳る北条氏は、源氏とは別の高貴な血筋から将軍を求めることにした。この体制が鎌倉幕府滅亡まで続くことになる。
まず、4代目の藤原頼経(ふじわらのよりつね)と5代目の藤原頼嗣(ふじわらのよりつぐ)は藤原氏の出身である。その血筋でも特に嫡流として摂政・関白・太政大臣に就任しうる「摂家」のひとつ九条家の出身なので、「摂家将軍(藤原将軍とも)」と呼ばれる。続いて6代目の宗尊親王(むねたかしんのう)から9代目の守邦親王(もりくにしんのう)までは「親王」の名のごとく天皇家の出身であり、「親王将軍(宮家将軍とも)」と呼ばれる。
彼らは名目上のトップとして鎌倉幕府に君臨したわけだが、実権を握ったのはもちろん北条氏だった。特に執権職(本来の意味は将軍の補佐)を世襲する北条本家は「得宗(とくそう)家」と呼ばれ、絶大な権力を誇った。

執権独裁に至る複雑な過程

とはいえ、北条氏は最初から鎌倉幕府を独裁的に支配していたわけではない。征夷大将軍をこそ神輿として扱ったものの、他の御家人たちに対しては、強攻策で攻め滅ぼすような態度と、尊重して懐柔する態度を使い分けていた節がある。
すなわち、梶原景時(かじわらかげとき)・比企能員(ひきよしかず)・畠山重忠(はたけやましげただ)・和田義盛(わだよしもり)といった有力御家人が北条氏によって攻め滅ぼされた一方で、二代将軍・源頼家を排除した際には13人の宿老による合議制を形成したし、その後執権として大きな力を持つようになってからも、しばらくは御家人たちの意見をうまく取り入れようとする姿勢が見られたのだ。

そもそも鎌倉幕府そのものの窮地になりうる事件もあった。1221年(承久3年)には後鳥羽上皇が武家政権をひっくり返し、天皇・公家政権の世を取り戻そうと挙兵する「承久の乱」が起きている。これを御家人たちの結集によって乗り切った鎌倉幕府は、朝廷と天皇に対して優位を確立し、その政権運営は安定期に入ったといっていいだろう。

その鎌倉幕府も、やがて衰退の時期に入っていく。要因は大きく分けてふたつある。
ひとつは、御家人たちの窮乏が進んだことだ。この時代の武士たちは子供が複数いれば領地を分割して相続するのが当たり前だったので、代を経るごとに御家人たちの領地は小さくなり、結果として貧乏な御家人が多数生まれることになる。
しかも2度の海外勢力の侵攻――元寇がこの傾向に拍車をかけた。戦っても得るもののない防衛戦では幕府としても大した恩賞を与えることができず、御家人たちはさらに窮乏していくことになる。無論、彼らの不満は膨れ上がっていく。

もうひとつは、執権を継承する北条得宗家を中心とする独裁体制がさらに強固なものになっていったことだ。この傾向は、特に親王将軍の時代に顕著である。
これはむしろ先に紹介したような御家人の窮乏や元寇という緊急事態に対抗してのものであり、北条氏の勢力を強め、執権を中心に幕府をまとめて危機を乗り越えよう、という意識が強かったようだ。にもかかわらず、やり方がまずかったせいで、むしろ「我々は幕政から排除されている」と御家人たちの不満をさらに強めてしまう結果になるのだから、自業自得というべきか。

このような御家人たちの不満の高まりを背景として、鎌倉幕府の崩壊は始まる。その主役となるのは、幕府に奪われた政権を朝廷に取り戻そうと企む後醍醐天皇であった……。

「北条将軍」が実現しなかった理由は?

絶大な力を持っていたにもかかわらず、北条氏は最後まで将軍の地位を得ようとはしなかった。それはなぜだろうか。大きく分けて、2つの説が挙がっている。
ひとつは、北条氏には権威が足りなかった、というものだ。「貴種性」と言い換えてもよい。北条氏は「新皇」を名乗った平将門や、平清盛ら平氏政権などと同じ桓武平氏の一族なのだが、勢力規模としては決して大きくなく、元は伊豆の一豪族に過ぎなかった。それが源頼朝という男に賭けた結果として鎌倉幕府の中心的な位置を占めることになりはじたものの、「源氏の嫡流」というビッグネームに取って代わるような血筋ではない。
そこで、代々朝廷の政治にかかわってきた藤原摂家や、天皇の血筋を将軍として祭り上げ、その権威を利用することで、鎌倉幕府を運営していった、というわけだ。

もうひとつは、北条氏としては将軍になろうと思えばなれたがあえてならなかった、というものだ。彼らに生来の権威が不足していたという点では先の説と同じだが、それに「北条氏としてはもともと頼家以降の源氏の血筋にも見切りをつけていて、親王将軍を見据えていた」という見方が加わる。
なぜかといえば、天皇の血筋を継ぐ幕府の長は、武家の頂点と朝廷の頂点の両方を主張しうる巨大な権威になるからだ、というわけだ。この日本史上稀に見る権威を、北条氏としては傀儡として活用できるわけだから、自らが無理をして将軍になるよりよっぽど賢いではないか、というわけである。

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