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【歴代征夷大将軍総覧】鎌倉幕府9代・守邦親王――鎌倉幕府とともにこの世を去る 1301年~1333年

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将軍はなんのためにいるのか

守邦親王は鎌倉幕府最後の将軍であり、その消滅と同じ年に死んだ将軍でもある。
父は先代将軍の久明親王であり、母方の祖父にあたるのが先々代将軍の惟康親王。血筋だけを見れば実に高貴だ。しかし、幕府の実権を持たず、業績自体もほとんど記録に残っていないのは、摂家将軍・親王将軍のほとんどに共通する特徴であり、守邦親王もその例外ではない。

わずかに残されている記録によれば、神社の造営にかかわったり、寺の住持を務めたり、といった文化的な事業に彼の名前が登場する。
直接的には政治にかかわりのない、宗教や文化活動にのみ担ぎ出されたと考えると、この時代の将軍がいかに象徴・神輿に過ぎなかったか、がよくわかるというものではないか。
しかも興味深いことに、守邦親王の時代においては「二所」として特別扱いであった箱根神社と伊豆山神社への参詣を、将軍ではなく得宗が行っている。得宗の権力が強化されていく過程で、象徴としての立場さえも奪われつつあったのだろうか。では、将軍とは何のためにいるのか? これはむしろ、北条家の暴走を示す事件であるように思われる。

加熱する討幕運動

守邦親王が将軍だった時代に起きた最も大きい事件、それは鎌倉幕府の滅亡に他ならない。その主役を務めたのが、大覚寺統から出た後醍醐天皇である。彼は幼帝が続いて実際の政治は上皇が行うことの多かったこの時期には珍しく少壮で即位した天皇であり、また、強烈な復古意識の持ち主であった。
通常、○○天皇という諡号は死後に決まるものなのだが、彼は生前から「後醍醐」と決めていた――「醍醐」とは、平安時代の、最も良い政治が行われたとされる時代の天皇の名のひとつである。彼は自らが親政を行える朝廷政権の時代に戻そうと強く願い、武家政権に対して反発心を抱く天皇であった。

幕府の介入もあって彼の息子が天皇になれる見込みがなくなってしまっていたこと、幕府そのものが衰退を続けていたこと、「悪党」と呼ばれる反幕府の独立武士団が現れ、世情を騒がしていたことも、天皇を討幕に突き動かした原因であったかもしれない。
しかし、討幕運動は一筋縄ではいかなかった。1324年(元亨4年/正中元年)、天皇は無礼講と称した酒宴での馬鹿騒ぎをカモフラージュにして味方を集め、ひそかにクーデター計画を練った。
ところがこの際は、声をかけられた武士のひとりが妻に言動を怪しまれ、計画を自状したことから事態が発覚。先手を打った幕府によって鎮圧されてしまう。これを「元亨の変」、あるいは鎮圧直後に変更された元号から「正中の変」という。

幕府、ついに滅びる

「正中の変」では幕府の対応も寛容であり、天皇に咎が及ぶことはなかった。だが1331年(元弘元年)、宗教勢力を利用して新たな討幕を進めていた天皇の計画が近臣(討幕に反対したのだとも、天皇に罪が及ばないようにしたのだともいう)の密告によって発覚すると、さすがに幕府としても放置はできないと判断したらしい。
天皇らは逃亡するも追い詰められ、河内の悪党・楠木正成の他には呼応して挙兵するものもなく、捕らえられて天皇の座を追われ、隠岐島へ配流された。これが「元弘の変」である。

絶体絶命の危機かと見えたが、実のところ戦いはここからが本番だった。
配流をきっかけとして再び挙兵した楠木正成をはじめ、畿内を中心とした各地の悪党が大暴れを始めた。そうこうしているうちに有力御家人まで次々と蜂起を始め、隠岐島より舞い戻った後醍醐の下に集まった。そこで1333年(元弘3年)、幕府は源氏の名門・足利一族の足利高氏(のちの尊氏)らを派遣したのだが、この尊氏はひそかに後醍醐側と接触、幕府を裏切って討幕に動く――これが致命傷だった。武士たちが内心に溜め込んでいた幕府と北条得宗家への反発が爆発し、全国の情勢は一気に後醍醐側へ傾いた。

尊氏らの軍勢が京の幕府軍を撃破し、後醍醐に代わって天皇となっていた持明院統の光厳天皇らが鎌倉へ脱出するところを捕縛する。これによう、後醍醐は天皇に返り咲くことになった。それとほぼ同時期に新田義貞を中心とする軍勢が鎌倉を攻め滅ぼした。
その際、時の執権・北条高時ら幕府の首脳陣は等しく自害して果てたが、なぜか名目上とはいえ彼らの主人である守邦親王だけは残された(直後に出家し、3ヶ月ほどを経て亡くなった)。

京の幕府側が天皇を脱出させようとし、しかし鎌倉の幕府首脳が将軍を放置したのはなぜだろうか。
前者ではまだ逆転の可能性を信じ、後者ではもはやこれまでと見て守邦親王を巻き込むまいとしたのだろうか。「守邦親王は実は生きていて、外秩父に脱出した」という伝説もある。
それが本当なら、幕府には何らかの思惑があったのか――? 今となっては、歴史の謎というしかない。

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