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【歴代征夷大将軍総覧】宗良親王――転戦の苦難から守戦の日々へ 1311年~1385年

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仏門から戦場ヘ

後醍醐天皇の皇子(第2皇子)で、南北朝の動乱期には南朝の征夷大将軍として各地を転戦した。
彼は武の人であったと同時に、文の人――和歌を大変好み、戦い続ける生涯の中でも歌を忘れなかった人であったといわれている。
たとえば、後村上天皇や征西大将軍として九州で戦い続けた懐良親王といった弟たちを歌で激励したり、南朝の天皇や家臣たちの歌を集めた『新葉和歌集』を編纂したことなどが知られている。

宗良親王の初期の経歴は、異母兄・護良親王のそれに似ている。
早くから仏門に入れられ、尊澄法親王を名乗っていた彼は、兄と同じように天台座主に就いている。鎌倉幕府打倒を目指していた天皇が、宗教勢力の力を活用するために送り込んだ、という点もまったく同じだ。

1331年(元弘元年)の「元弘の変」では兄とともに比叡山で挙兵するも、失敗。兄はうまく逃れたが、宗良親王は捕らえられ、讃岐へ配流という処分になった。このとき、幕府の厳しい尋問に涙を流した、という逸話がある。このころにはまだ、兄・護良親王のような豪傑ではなかった、ということだろうか。
ところが兄の活躍もあって天皇方が逆転勝利を収め、鎌倉幕府が滅亡したため、彼も中央に戻ることができ、天台座主に戻っている。

転戦の日々

そんな宗良親王が再び戦いに舞い戻ることになったのは、足利尊氏が建武の新政に対して反旗を翻し、京を占領してしまった1336年(建武3年)のことである。
この危機に際して彼は比叡山を降りて還俗、「宗良親王」を名乗って父のために、南朝のために戦うことになったのである。
以後、宗良親王は南朝に欠くことのできない重鎮のひとりとして、各地を転戦しながら北朝と戦い続けた。

奈良と河内で室町幕府の重鎮・高師直(こう の もろなお)と戦った際には激戦の末に敗れたものの、彼自身は一歩も引かずに戦い続けた、と伝わる。また、東国で劣勢に陥っていた南朝勢力を救うために伊勢より大船団で出陣した際には、暴風雨に遭ってひとり遠江へ流される、ということもあった。
各地を転戦し続けて1344年(康永3年)に信濃国は大河原の地(現在の長野県下伊那郡大鹿村)を本拠地と定める。その後は、越後・越中・武蔵の各地に出陣して、北朝・室町幕府と戦い続けることになった。

征夷大将軍にはなったけれど

1352年(正平7年)、そんな宗良親王を、弟・後村上天皇(1339年=延元4年の後醍醐天皇の死去を経て即位)が征夷大将軍に任じる。
この時期、室町幕府は「観応の擾乱」と呼ばれる内紛(詳細は後述)によって大いに混乱しており、尊氏が(名目上ではあったものの)南朝に対して一時大きな譲歩を示しつつ降伏、内部の争いに集中しなければいけないほどであった。

そこで南朝方はこれに乗じる形で尊氏に対して法外な要求をするとともに、一気に攻勢に出る。
西では足利義詮(よしあきら。尊氏の子、後の室町幕府二代将軍)を打ち破って京を占領し、東では新田義貞の子である義興・義宗の兄弟が武蔵野国の小手指ヶ原(こてさしがはら)で尊氏の軍勢を打ち破ったのである。宗良親王の将軍就任も、こうした南朝側の全面攻勢の延長線上にあった、と考えるのが妥当だろうか。

――ただし、南朝の優勢は長くは続かなかった。義詮の逆襲を受けて京を奪い返され、関東でも兵をふたつに分けた隙を突かれた新田兄弟が2度目の小手指ヶ原の戦いで尊氏に敗れてしまった。
宗良親王はその後も粘り強く戦い続けたが、3年後に自らも北朝方との決戦に敗れて力を失う。以後は防戦一方。敗戦も続いたようで、南朝方からの上洛軍出陣要請にもなかなか応えることができず、ひたすら守り続ける形になってしまった。南朝自体も大きな攻勢に出ることがかなわず、やがて室町幕府との講和、南北朝の統一という方向へ時代は進んでいくことになる。

結局、宗良親王が病によって亡くなったのは弘和末~元中初というから、西暦でいうと1380年代の前半、70歳ほどでこの世を去った、ということになる。

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