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【歴代征夷大将軍総覧】室町幕府6代・足利義教――偶然で将軍になり、「万人恐怖」と呼ばれる 1394年~1441年

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「くじ引き」で選ばれた将軍

後継者の決まらなかった将軍の座に、「くじ引き」で選ばれた。
将軍専制を志向して数々の改革を行ったが、行き過ぎて「万人恐怖」と恐れられ、ついには暗殺される。

5代将軍の足利義量が亡くなり、しばらくの将軍不在の期間が続いたのち、次の将軍が決まらないままに1428年(応永35年)、4代将軍の義持も没してしまった。
重臣たちは相談し、義持の4人の弟の中から次期将軍を選ぶことに決めた(死の直前の義持から許可を得ていたとも)。その選出方法というのが、なんとくじ引き。運任せだったのである。

時の管領・畠山満家が石清水八幡宮の神前でくじを引いた結果、選ばれたのは義持の8つ年下の弟・義満の四男で10歳のころより仏門に入っていた青蓮院義円(しょうれんいん ぎえん)だった。
ただ、このとき周りには誰もいなかったとされている。そのため、これが本当に偶然の結果だったかどうかはわからない。

ともあれ義円は還俗し、翌年には元服して「足利義宣(よしのぶ)」となり、さらに将軍宣下を受けて六代目の室町幕府将軍となった。
この時、「義宣」は「世を忍ぶ」と同じ響きを持ち、縁起が悪いとして再度名を改め、「義教(よしのり)」とした。どうにも縁起担ぎや神頼みの多い将軍就任エピソードだが、これは現代の感覚で考えてはいけない部分なのだろう。

将軍権力の確立に奔走する

将軍就任当初の義教は、兄の義持と同じように、管領以下の重臣たちの意見を取り入れて政治を行っていた。
しかし、しばらくすると、義教は将軍専制を意識するようになり、反抗する者に対しては強硬な姿勢で臨むようになる。

その一つとして、比叡山延暦寺との抗争が挙げられる。軍事力も兼ね備えた延暦寺は、畿内において大きな勢力を誇っており、尊氏以来の歴代将軍も、延暦寺との付き合い方には心を砕いていた。
しかし延暦寺の僧兵の乱暴な振る舞いは目に余るところがあり、義教は幕府の権威を高めるためにも、この制圧に乗り出したのだった。

1434年(永享6年)、幕府との対立姿勢を強める鎌倉公方(かまくらくぼう)の足利持氏(あしかが もちうじ)と、延暦寺とが通じているという噂が流れたために、義教は延暦寺の山門を囲ませる。降参を申し出た衆徒らはしぶしぶ許したものの、首謀者となった4人のことは許せなかったらしく、誘い出して殺してしまったという話だ。
ここで名前が出た持氏も、義教のライバルといっていい存在だ。同じ足利氏なのに、自分はあくまで地方機関の長に過ぎず、将軍になれないのはおかしい、というわけだ。そのため彼は関東で独自の支配を確立させようとして、幕府に対抗していた。

義教はこの危険分子も放置せず、制圧に乗り出した。1438年(永享10年)から関東管領(かんとうかんれい)である上杉憲実(うえすぎ のりざね)と持氏が対立し始め、関東の情勢が危うくなってくると、このチャンスを見計らって義教は鎌倉に軍を送り込んだのである。
幕府軍に援軍が送られ、さらに鎌倉方からそちらに寝返る者まで出始めると、持氏は一気に不利になった。そこで持氏は敗北を悟って降参を申し入れたものの、その子の義久もろとも自害に追いこまれ、鎌倉府は一時消滅してしまった。これを「永享の乱(えいきょうのらん)」という。

そのほか、義教は九州の統治にも乗り出し、これを成し遂げている。比叡山延暦寺の制圧、関東府や九州の統治などは、これまでの室町幕府が成し遂げられなかったことであり、義教の政治的手腕が優れたものであったことを証明しているといえよう。

ひと呼んで「万人恐怖」

その一方で、義教はひどい癇癪持ちで、自分の気に入らないことがあればすぐに怒り、そして些細なことで人々を処罰した。「万人恐怖」と言われたゆえんである。

たとえば1440年(永享12年)、義教が禁中にて松囃子(まつばやし)という鼓舞の主宰を務めたとき、これを演じたのは芸人ではなく大名の子弟たちだった。右大臣の鷹司房平(たかつかさ ふさひら)がそのことに不満を漏らすと、機嫌を損なった義教は彼の領地を取り上げてしまったという。
このほかにも、献上された梅の木の枝が折れていたからと監督者に切腹を命じたり、公卿の正親町三条実雅(おおぎまちさんじょう さねまさ)の邸宅を訪れたとき、妾の返事の仕方が良くなかったとして激怒し、彼女を刀の鞘で打ち据えたりしたという。

義教に処罰された者の数は、彼の将軍在任期間の前半だけでも、80人にのぼったとされている。
この記録では、大名や武士は数に入れられていないので、実際にはもっといたはずだ。その処罰の理由のほとんどが、義教の癇に障っただけの些細なものだったらしい。

なぜ、義教はここまで狂気に侵されたのか。一説には、彼の体に原因があるともいう。義教は生まれつき体が弱く、毎年のように病床に臥せっていた。この病に対する精神的なストレスが、義教の残虐性を駆り立てたのではないかという説だ。
仏門に入っていた身から突然還俗させられたのが原因という「環境の変化説」もある。もともと俗世間から離れて暮らしていたところを、30も過ぎてからいきなり生臭い政治の世界に引きずり込まれたため、精神が不安定になってしまったのでは、という話である。

嘉吉の乱に義教死す

このような義教の残虐行為、また権力の集中化に、不満を感じる人は少なくなかったのだろう。ついに1441年(嘉吉元年)、事件が起こる。いわゆる「嘉吉の乱(かきつのらん)」だ。

その日、播磨・備前・美作の守護である赤松満祐(あかまつ みつすけ)が、義教の関東平定を祝したいといって、自分の家に彼を招いた。
当日、義教は西洞院二条にある赤松邸を訪れたものの、何故かそこに満祐本人はいない。しかし満祐の子息である教康(のりやす)が見事にもてなして見せたため、義教は満祐不在をそこまで不審に思うこともなく、上機嫌で酒を飲んでいた。
ところが不意に屋敷の内外が騒がしくなったかと思うと、宴会を行っていた部屋に数十人の刺客が斬り込んできて、義教はあっという間に首をはねられた。このとき、同じように招かれていた大名たちはほぼ全員が逃げ出してしまったという。

この計画の黒幕こそが満祐であった。
前述のとおり、赤松氏は3ヶ国の守護を務める名門だったが、義教が赤松氏の庶流である赤松貞村(あかまつ さだむら)を溺愛し、満祐の有する3ヶ国を全て彼に与えるという噂が流れていた。実際に一度、義持が将軍だった時代にも同じような理由で所領を取り上げられそうになったことがあり、満祐の不安は極まった。暗殺計画に及んだのは、満祐にこのような理由があったからだとされている。

作戦は見事に成功した。満祐や教康らは討ち取った義教の首を剣に突き刺し、それを高く掲げて堂々と京都より退去していったという。
幕府は将軍の急死によってトラブルが起きることを懸念し、なかなか追討軍を発することができなかった。しかし、事件の現場にいながらも逃げ出すことのできた管領・細川持之(ほそかわ もちゆき)が、義教の子の千也茶丸(せんやちゃまる)を将軍に据えることで政局を安定させ、ようやく追討軍が出陣した。

この追討軍が赤松軍を打ち破り、満祐は一族とともに自害することになったが、義教の死について伏見宮貞成親王は、自身の日記である『看聞御記』の中に「自業自得である」と綴っている。
こうして「万人恐怖」の時代は幕を閉じ、情勢は再び将軍権力の衰退と有力守護大名たちの権力強化へ向かっていくことになる。

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