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【歴代征夷大将軍総覧】室町幕府10代・足利義材――幕府崩壊劇の主役となった「流れ公方」 1466年~1523年

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六角氏討伐を成し遂げる

名を「義尹(よしただ)」「義稙(よしたね)」と改めた彼は、征夷大将軍が武家政権の長・幕府の頂点となってからは唯一、二度将軍になった人物でもある。そのため、本書では義材(よしき)についての紹介をふたつの項目に分けて行う。波瀾万丈の生涯の中で、各地を転々としたことから、「流れ公方」なる異名を奉られている。

9代将軍の足利義尚が病死し、新たな将軍として選ばれたのが義材である。その父は、義尚および日野富子との抗争に敗れて将軍に就任できなかった足利義視(あしかが よしみ)だ。
義材は12歳になる頃には父に連れられて土岐成頼(とき しげより)を頼り、美濃に下った。それから12年の月日を美濃で過ごしたが、ある日9代将軍・義尚が死去したとの報を受け、父子揃って上洛する。翌年には義尚の父である義政も他界したため、ふたりにチャンスが回ってきた。義材は富子に擁立される形で、10代将軍となったのである。

しかし義材には、将軍就任当初から厄介な政敵がいた。
それが時の管領・細川政元(ほそかわ まさもと)である。政元は、義政の弟である堀越公方(ほりごえくぼう)・足利政知(あしかが まさとも)の子、つまり義材にとっては従兄弟にあたる清晃(せいこう)を次期将軍として推薦しており、義材の将軍就任に反対していたのだ。以降、義材と政元との対立が続くことになる。

翌年、義材の補佐役を務めていた義視が死去した。不思議なことに、義視が亡くなったのは義政の死からちょうど1年後の、1491年(延徳3年)正月7日だったという。
義視の死後、義材は前将軍である義尚の遺志を継いで、六角氏討伐に乗り出す。実は義材は、一度六角高頼を赦免しており、その際に条件の一つとして寺社本所領の返還を約束させた。しかし、六角氏側は返還を拒否してきたのである。そのため義材は赦免を取り消し、足利一族や公家衆、さらに政元含む近臣らを率いて近江に出陣。その軍勢は、義尚の時のそれをはるかに上回っていた。

これに対し、事前に義材出陣の報を手に入れていた高頼は、義尚の時と同じくグリラ戦法に移るため、居城である観音寺城を出て甲賀の山中に身を隠した。そして幕府軍が陣を敷くとそこに奇襲をかけたが、逆に猛攻を受けて多くの犠牲を出してしまう結果となる。
この戦いで勝敗は決し、義材は高頼から取り上げた守護職を、高頼の一族の虎千代と、北近江の京極高清(きょうごく たかきよ)に半分ずつ担当させることで、近江の平定を終わらせた。

明応の政変――戦国時代の始まり

次に義材は、幕府と将軍の権威回復に乗り出した。そのターゲットとなったのが、畠山基家(はたけやま もといえ)であった。
畠山氏は応仁の乱の後も内紛が絶えず、畠山義就(はたけやま よしひろ)と基家の父子が、畠山政長(はたけやま まさなが)との抗争を続けていたのである。
政長は義就が死没するとこれを好機と見て義材に基家討伐を促した。その後押しを受けて、義材は討伐に踏み切ることになる。

近江平定を終えた翌年、義材は政長らの諸将を従えて出陣した。これに呼応して大和の武将・成身院順盛が基家方の諸城に攻撃を始めたため、義材の進軍は比較的スムーズに進んだ。
しかし、ここで思いもよらない事件が起きた。義材の将軍就任以来の政敵であり、政長とも対立していた細川政元が、義材の存在を疎むようになっていた日野富子と密かに通じ、背後――京でクーデターを起こしたのである。政元は義材方の諸将の家や寺院などに火をつけてまわり、清晃を新たな将軍として擁立した。

このことが討伐軍に伝わると、これに加わっていた諸将らは次々と引き上げていき、それどころか政元に内通するものまで出てくる。京からは政元の命を受けた軍勢がやってきて、そこに寝返った諸将も加わった。
そこで義材と政長は基家攻めの陣所にしていた正覚寺城に籠城し、これらに対抗した。当初は義材側にも勢力が残っており、一度は敵軍を撃退するほどの奮闘を見せる。しかし援軍としてやってくる予定だった軍勢が途中で敗れてしまい、救援のあてがなくなってしまうと、ふたりもついにあきらめざるを得なくなった。政長は自刃して果て、義材は捕らえられることになったのである。

義材は竜安寺に幽閉された。しかし小豆島への配流が決定されると、そのことを知った彼は警固番を殺害して脱出し、越中へと向かった。ここから、将軍への再就任を目指した義材の流浪の旅――「流れ公方」の苦難が始まるのだが、詳しくは次次項に譲る。
この一件を「明応の政変(めいおうのせいへん)」と呼ぶ。仮にも将軍の地位にあるものが、部下によってその座を追いやられてしまったことで、ただでさえ応仁の乱で大いに揺らいでいた将軍と幕府の権威は完全に地に落ちた、といっていい。
全国で加熱していた小競り合いを止めるものはもはやなく、世は戦国時代へ突入していくのだった。

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