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【歴代征夷大将軍総覧】室町幕府15代・足利義昭――信長に縛られた、最後の将軍 1537年~1597年

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上洛を目指し、各地を転々

法名は覚慶(かくけい)、初名は義秋。12代将軍・足利義晴の次男で、13代将軍・義輝の弟にあたる。
もともと、義昭は将軍の息子ではあるが、次男だけにその後を継ぐ予定はなく、幼いころから仏門に入れられていた。本来なら、そのまま僧侶・覚慶として一生を過ごすはずだったのである。

しかし、松永久秀と三好三人衆によって兄・義輝が暗殺されたことで、彼の運命は大きく動き出す。そこで義昭ともうひとりの弟も捕らえられてしまう。他勢力によって旗印として活用されるのを恐れたのだろうか。結局、弟はそのまま殺害されてしまう。
だが、義昭は細川藤孝など兄の家臣たちの助けを受け、幽閉されてから2ヶ月後に見事脱出に成功した。近江の武将・和田惟政(わだ これまさ)の館に入ると、無力化していた幕府を立て直すことを宣言。僧のままでは将軍にはなれないため、翌年還俗して名を「義秋」と改めた。

義昭はまず近江を拠点に、この地の有力武家である六角氏を味方につけて上洛を目指していたのだが、三好三人衆の攻撃を受け、また六角氏内部にも義昭に敵対する勢力がいたことがわかったため、近江を出ることになった。ここから、上洛を目指しての義昭の放浪の日々が始まる。
最初は親族の縁を頼って若狭の武田氏のもとへ身を寄せた。しかし、この武田氏も内紛を抱えていたので義昭の手助けをするどころではなく、頼れなかった。

次に頼ったのが、越前の名族・朝倉義景(あさくら よしかげ)だった。
彼は義昭を領内に迎え入れてはくれたものの、「上洛のために出兵してくれ」という義昭の説得にはなかなか応じなかった。そうこうするうちに義輝の討死から三年が過ぎ、1568年(永禄11年)を迎えた。この年の4月、義秋は朝倉氏の一乗谷城にて元服し、名を義昭と改める。

信長との蜜月はわずかな期間だけ

織田信長が義昭にコンタクトをとってきたのは、その年の7月である。信長は前年に美濃を平定し、次は上洛に踏み出そうとしていた。そこで、「義昭を将軍にする」という大義名分を立てようとしたわけだ。
一向に動く気配を見せない義景に焦っていた義昭は、この信長の申し出に飛びつく。かくして、信長&義昭の上洛戦が始まる。途中、三好三人衆と組んだ近江の六角氏が立ちはだかったものの撃退し、ついに京へ入る。この上洛の途中、14代将軍・義栄が病死していたこともあって、義昭にとって兄の仇である久秀もあっさり降伏している。

入京の翌月、義昭は征夷大将軍に任じられた。義昭は信長に感謝の意を示して彼を管領にしようとしたものの、信長はそれを固辞。幕府の再興と畿内の平定という目的は果たしたということで、美濃へと戻っていった。
将軍になった義昭は、安芸の毛利元就と豊後の大友宗麟の講和を進め、両者に三好氏の本拠を攻めさせるなど、政治的な動きを活発に見せるようになる。兄の遺志を継いで、将軍の政治的権威を回復させようという意図があったのだろう。

しかし、これらの行動は信長に咎められ、「殿中の掟」という規則を定められることとなった。「殿中の掟」は9条からなり、義昭の政治的な行動を束縛するものであった。
上洛という同じ目的において協力しあったふたりだったが、この頃からその関係に亀裂が入り始める。
一度は信長が和解を申し出て、義昭もそれに同意した。しかしその際に用いられた条文は義昭から完全に政権を取り上げるという内容のものであり、本心から納得はしていなかったろう。

信長包囲網にかけた執念

和解から2年後の1572年(元亀3年)にもなれば、義昭は再び信長に対して強い反感を抱くようになっていた。義昭は甲斐の武田信玄や、石山本願寺の顕如をはじめとする諸勢力に「反信長」で結集するよう呼びかけた。いわゆる「信長包囲網」である。
一方の信長も、義昭の動きを見ていよいよ本格的に敵対する時が来たと判断し、義昭に17ヶ条からなる諫言書を提出した。これは味方と敵の両方に、義昭が間違っていること、自分が正しいことを宣伝するための行動だと思われる。

1573年(天正元年)、ついに義昭は兵を挙げた。同時期に各地で一向一揆も起こり、情勢は大いに混乱した。
これに対し、信長は使者を送り、義昭との和議を申し入れる。しかし義昭はこれをすんなりとは受け入れず、使者が到着してから5日が経過しても和議は一向に進む様子がなかった。
そのために信長の使者が「和議を受け入れなければ京都を焼き払う」との脅しをかけるほどだった。

やがて1ヶ月が経ち、ついに信長が直接京まで足を運んだ。
信長は義昭に、頭を剃り武器を捨てて謁見するとまで申し入れたが、これも聞き入れられず、ついに脅しを実行に移した。京都の町を一部焼き払ったのである。これにはさすがに義昭も動かないわけにはいかなかった。
すぐに使者として侍女を送り込んだが受け入れられず、ついに朝廷の勅使が間に入る形で講和がなった。

講和から3ヶ月後、早くも義昭は再出兵した。信玄や義景らに手紙を送り、義昭が京都の槇島城に入って立てこもると、信長も早速兵を挙げて槇島城を攻めた。
そして義昭の挙兵から17日後、早くも本城が危うくなったため、義昭は2歳になる息子を人質として差し出すことで、信長に降伏したのである。

信長に敗れた義昭は、ついに京から追放されてしまった。この後に新たな将軍が任命されることはなかったため、一般に義昭が京を追われたこの時点をもって室町幕府は滅亡した、と考えられる。
鎌倉幕府や江戸幕府のような動乱の末の滅亡ではない、ある意味あっさりとした消滅であった。

義昭自身は西へ向かい、毛利輝元の庇護を受けた。
毛利氏は信長との勢力争いが加熱してきたこともあってこの義昭の要請に応え、そこに上杉氏や本願寺なども加わって、新たな信長包囲網が展開された。
今度こそ信長を追い詰めるかと思われたが、1578年(天正6年)になって、京都への進軍の準備を行っていた上杉謙信が病死してしまう。これにより包囲網は崩れ、2年後には本願寺も信長と和睦を結んだ。義昭の無念はいかばかりであったろうか。

最後まで誇りは消えず?

1582年(天正10年)、その信長が本能寺の変で倒れた。信長の訃報を聞いた義昭は、早速帰京のために出兵するよう、毛利輝元や小早川隆景らに命じた。
さらに信長の後を継いだ羽柴秀吉にも働きかけて帰京の支援を求めたが、彼と信長後継者の地位を争った柴田勝家に義昭が味方したため、結果的に秀吉は敵に回ることとなってしまう。

やがて秀吉は義昭を京都に呼び寄せた。義昭の猶子となり、征夷大将軍の座につくのが目的だったと思われる。
義昭がこれを認めなかったために、秀吉の将軍就任は実現しなかったが、1588年(天正16年)には義昭は帰京しており、出家して昌山(しょうざん)と号した。この頃にはすでに、義昭と秀吉の間に敵対心のようなものはなかったようで、1592年(文禄元年)の文禄の役にも、出家した身でありながらも従軍している。

1597年(慶長2年)、彼は腫れ物を患い、それが原因で死去した。

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