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【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府初代・徳川家康――戦国時代を終わらせた偉大なる将軍 1542年~1616年

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無骨者か、教養人か

幼名は竹千代。元服してからは松平元信、松平元康、そして徳川家康と名を改める。
「織田がつき、羽柴がこねし天下餅、すわって食ふは徳川家康」あるいは「鳴かぬなら鳴くまで待たう時鳥(ほととぎす)」――これらの、あまりにも有名な句が当時本当に巷間囁かれていたかはともかく、そこに示されているように辛抱強く情勢の変化を待ち続け、ついに何もかもを手に入れた男、というイメージが家康にはある。
彼は織田信長や豊臣秀吉よりも長生きし、慎重に、辛抱強く動いた。彼の作り上げた天下が長続きしたのもそれゆえであろう。

このような無骨なイメージの一方、実のところ彼は大変な教養人でもあった。漢詩や連歌は嫌ったというが、茶の湯、香道、囲碁、立花などは好んだようだ。
さらに学問には深い興味を示した。その対象は政治・兵法・儒学といったところで、『源氏物語』も物語としてではなく文学として学んだ形跡がある。家康が好んだ学問として特に有名なのは薬学で、医者を嫌って自ら薬を調合し、それによって何度か命を拾ったこともよく知られている。また、海外についての知識も持っていたという。

もちろん、戦国を生きた武士として武術にも熱心で、馬術、弓術、砲術、水泳などを身に付けた。特に剣術については幾人かの優れた剣術家より技を学んでおり、名高い柳生新陰流もその中のひとつだ。
家康は多芸多才の人でもあったのである。

苦難の幼少期――人質として

家康は三河の国人・松平広忠の嫡男として生まれた。
しかし、彼が生まれたころ、松平氏は窮地にあった。祖父・松平清康の代には三河一国を席巻するほどに勢力を拡大したものの、家臣によって彼が殺害されると、一気に衰退。広忠のころには駿河国の名門・今川義元と尾張国の新興勢力・織田信秀(信長の父)との両勢力に挟まれた弱小勢力として、今川氏の支配下に収まることでどうにか存続しているに過ぎなかったのである。

松平氏をめぐる複雑な状況を受け、家康の幼少期は人質生活と同義だった。6歳のときに今川氏の人質になることが決まり、移送される最中に身柄を奪われ、織田方の人質とされた(この時期、信長との接触があったのでは、という見方もある)。
1549年(天文18年)、父が家臣によって殺害されると、今川・織田の人質交換によって改めて今川方の人質になった。今川氏としては、改めて松平への支配力を強化する必要があったのだろう。

家康が1555年(弘治元年)に元服した際、義元から一字を与えられて元信を名乗り(まもなく元康と改名)、2年後には今川一族の娘である築山殿を正室として迎えているのも、このような支配力強化政策を受けてのものだ。
またこの時期、家康は名軍師として名高い太原雪斎の薫陶を受け、後の躍進への土台を作った、という。

今川家臣団における若手武将として働いていた家康の運命が大きく変わるのは、1560年(永禄3年)のことだ。
この年、義元は長らく争ってきた織田氏に大打撃を与えるべく、2万を超える未曾有の大軍を率いて尾張へ出陣、家康も参加した。一般にこのときの義元の目的は上洛と信じられていたが、近年では領土争いの延長であったと理解されている。
誰もが予想しなかったことだが、この戦いの勝者は織田氏であり、その若き当主・信長だった。彼の乾坤一擲の突撃によって義元は討ち死にし、以後今川氏は急速に衰退していくことになる――それは、家康にとっては独立の大チャンスに他ならなかった。

2年後には信長と和睦して「清洲同盟」を結び、今川氏と断絶。この際、「元」の一字を捨てて家康と改名する。
徳川を名乗ったのはさらに4年後だが、これは松平一族の中で自らの優位性を確保したかったから、と考えられている。

「信長の同盟者」として

以後、家康は織田信長の忠実な同盟者として、また西へ西へと進出していく織田氏にとっての「東の盾」ともいうべき存在として、自らの勢力をも伸張させていくことになる。
1564年(永禄7年)には三河全体を支配下に置くことに成功しているし、1569年(永禄12年)には甲斐の武田信玄と協力してかつての主家・今川氏を攻め滅ぼし、隣国の遠江を制圧した。1575年(天正3年)の長篠の戦いで信長とともに武田軍を打ち破ったように、織田氏の戦いにもたびたび参加しているし、1582年(天正10年)に武田氏を攻め滅ぼすにあたっても大きな働きをし、駿河国を得た。

もちろん、その中ではたびたび苦難があり、滅亡の危機もあった。1563年(永禄6年)には三河で大規模な一向一揆が勃発し、この際には松平家臣団の半数が信仰上の理由から一揆側として挙兵したので、大変に苦労することになった。
1572年(元亀3年)、武田軍がいわゆる「信長包囲網」の一員として攻勢に出た際には、信長の同盟者としてその攻撃の矢面に立たされ、三方ヶ原の戦いで散々に打ち破られてしまう。このとき、家康は明らかに劣勢でありながら無理に出陣して敗北してしまい、命からがら逃げ延びた際にその屈辱の姿を描かせて自らの戒めにした、という。ただ、家康が出陣した理由については「領内を悠々と進ませては、同盟者である信長への面目も立たず、支配下にある国人たちも離反する可能性があったからだ」と弁護する説があることもまた事実である。

1579年(天正7年)には、正室の築山殿と嫡男の信康を殺害せざるを得なくなった。
これは、信康の妻・徳姫(信長の娘)と築山殿の関係が悪化し――実家の今川氏を信長に滅ぼされたのが原因という――、徳姫がこのことで父親に泣きついたのが原因である。これがただの嫁姑問題ですまなかったのは、徳姫の訴えた内容が「信康と築山殿が敵である武田氏と内通している」と取れる内容だったからだ。信長はこのことを問題視し、また信康の才覚を危険視していたので、家康に命じてふたりを殺させてしまった、というわけだ。

このことからもわかるように、織田政権が急成長したあと、両者の関係は対等の同盟ではなく織田が主・徳川が従、という形に近かったようだ。そのまま信長の天下取りが成就すれば、家康は支配下の一大名に転落したかもしれない。
しかし、そうはならなかった。1582年(天正10年)、信長が京・本能寺で家臣の謀反に倒れたからだ。

耐え忍んだ豊臣政権時代

信長の仇を討ち、崩壊した織田政権を再編成したのは羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)だった。この人物は足軽の出ながら才覚に長け、古くからの織田氏重臣である柴田勝家を倒し、信長の息子たちも封じて、一気に勢力を伸ばしていった。
これに対し、家康は武田と織田が相次いで倒れて空自地域になっていた甲斐と信濃(東部・南部)に進出してこの地域を獲得。さらに1585年(天正13年)には信長の次男・織田信雄を担いで秀吉と対峙した。この「小牧・長久手の戦い」は家康有利に進んだが、秀吉が信雄を抱き込んでしまったので大義名分がなくなり、戦いは終わった。

その後、秀吉は自身の妹・朝日姫をわざわざ元の夫と離縁させてまで家康の継室として押し付け、さらには母親の大政所まで人質として送り込む外交工作を仕掛けてくる。結局、家康は秀吉への臣従姿勢をとり、豊臣政権に加わることになった。
1590年(天正18年)に北条氏攻めにも参加、恩賞としてその旧領である伊豆・相模・武蔵・上野・上総・下総の6ヶ国250万石を与えられる。しかし、同時に本来の領地である東海地方は取り上げられ、また新領地は中央から遠い上に経済的に貧しく、以前のような代々のつながりもなかった。

これは家康を地方に封じて謀反できなくするための秀吉の策略とされ、徳川家臣団の多くも「これで終わりだ」と嘆いたというが、家康はむしろ「新しい体制を築くチャンス」なのだとビジョンを提示して鼓舞した、という。
このとき家康が拠点としたのが武蔵国江戸――現在の東京である。

乾坤一擲、天下分け目の関ヶ原

豊臣政権下の家康は豊臣を除いて最大の所領を有する大大名として、また「五大老」の筆頭として大きな発言力を有した。しかしその一方で秀吉が2度にわたって実行し、大きな損害を出した朝鮮出兵には参加せず、力を蓄えていたと考えられる。
1598年(慶長3年)に秀吉が亡くなり、豊臣政権は彼の子である秀頼を頂点に、諸大名が補佐する形になった。最大の大名である家康の発言力はもちろん絶大なものだった。しかも、家康は秀吉によって禁止されていた「他大名との勝手な婚姻」を行ったため、「五奉行」として豊臣政権を支えた石田三成らと対立するようになった。一方、この三成は厳しい政権運営から加藤清正・福島正則ら豊臣政権内部の武断派とも対立しており、家康は彼らを味方につけて反家康派に対抗していく。

そして1600年(慶長5年)、家康が「謀反の疑いがある」として五大老のひとり・上杉景勝討伐の兵を挙げると、その隙を突いて三成も同じく五大老の毛利輝元を旗印に挙兵。両軍は美濃国・関ヶ原で激突した。天下分け目の「関ヶ原の戦い」である。
このときは兵力で三成方(西軍)が勝り、兵の配置でも家康方(東軍)を取り囲んで圧倒的に有利と思われた。しかし、実際に戦いが始まると、東軍の背後に陣取った毛利勢は最後まで動かず、横を突くはずだった小早川秀秋の軍勢は味方の西軍に向かって突撃、それで決着がついた。家康はあらかじめ裏切り工作を仕掛けていたのである。

ついに神となった男

戦後、家康は西軍側についた大名を改易・減封し、東軍側の大名の所領を増やす名目で、諸大名の配置を大きく変更した。これによって親豊臣の大名は数を減らし、あるいは中央の要地から遠隔地へ飛ばされ、実質的に家康が天下を取ったことになる。家康が征夷大将軍の職を得て、江戸幕府を開くのは数年後、1603年(慶長8年)のことである。
しかもさらに2年後には、その将軍職を息子・秀忠に与え、自らは隠居地である駿府ヘ移り住んでしまう。しかしこれは政治からの引退を示すものではなく、以後も「大御所」として実権を掌握。実質的に2人の将軍が並び立つような形で政治を行った。このように早い時期で代替わりを行ったのは、「もう下剋上の時代ではなく、以後は徳川家が天下人の座を継承する」という宣言だったのでは、と考えられている。

やがて豊臣家も1614~15年(慶長19年~慶長20年)に二度にわたって戦われた「大坂の陣」によって滅亡し、「元和偃武」の時代がやってくる。「偃武」とは武器を収めるの意味であり、長い戦国時代が終わったことを意味している。
家康はそれを見届けたかのように翌年、亡くなる。「鯛の天ぷらを食べ過ぎたせい」という説が有名だが、実際には胃癌だったようだ。また彼には死後になって「東照大権現」の神号が与えられている。「東照宮」「東照神君」の尊称はこれに由来するものであり、家康は神になった、というわけだ。

移り変わる情勢に翻弄され、長い我慢を続けながら、乾坤一擲の機会においては寝技を駆使して「戦わずして勝つ」。
そして長い平和を生み出すシステムを作り上げて死ぬ――その生涯は、ある意味で「理想の日本人」の一つの典型といってもいいかもしれない。

三河武士が支えた天下取り

このように家康が天下取りにまで漕ぎ着けた理由として、彼を支えた家臣団の存在も非常に大きかった。
「三河武士」といえば「頑固一徹」の代名詞的存在であるが、彼らは今川氏の実質的な支配下に置かれていた時代からよく家康を支え、その後の動乱期にも多くが主を見捨てなかった。
名のある武将としては酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政の「徳川四天王」がおり、特に本多忠勝は50を超える戦いに挑んで一度も手傷を負わなかったという。もちろん、勇猛な武将だけでは天下は取れない。能吏・謀臣として知られる本多正信は三河一向一揆において家康に背き、その後多くのものたちが徳川家に戻ったのに長く放浪を続けた変り種であるが、家康とは深い信頼関係で結ばれ、息子・正純とともに活躍した。

一方、家康も彼らの信頼に応えていたことがよくわかるエピソードが『徳川実紀』にある。
豊臣政権時代、諸大名が自慢の煌びやかな宝物の数々を自慢しあう流れになった際、家康はどんな財宝も示さなかった。自らを「三河の田舎大名」と断った上で、「徳川で一番の宝は、水にも火にも恐れないと誓いを立てている500人の家臣である」と宣言したのだ。人の上に立つものかくあるべし、だ。

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