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【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府3代・徳川家光――江戸幕府を完成させた生来の将軍 1604年~1651年

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「生まれながらの将軍」家光

1623年(元和9年)、徳川秀忠は自らの次男・家光に将軍職を譲り渡した。新たな将軍となった弱冠20歳の若者は、広間に居並ぶ諸大名に対して宣言する。
すなわち、「祖父家康と父秀忠は、諸大名の力を借りて天下人となったので、同格の礼で応えてきた。だが、私は生まれながらの将軍であり、お前たち諸大名は家臣である。そのように扱うことに不満があるなら、領地に戻って戦う準備をしろ」――このようなことを言ったわけで、これはもう堂々たる王者の言である。

この年には豊臣家が滅んでから10年弱が経っていた。それ以前から江戸幕府はあり、さらに前には豊臣政権による平和な時代があったわけだから、戦国時代ははるか過去の話だ。今となっては、幕府の権威と武力に対抗できる大名など、数えるほどしかいない。
家光の堂々たる自信に、大名たちは平伏するしかなかった。このとき、真っ先に畏まった大名の名前として奥州の独眼竜・伊達政宗の名前が挙がっている。
――しかし、家光の「生まれながらの将軍」の座がずっと安泰だったわけではない。むしろ、それは危機を乗り越えて維持した地位であった。

家光の危機を救った乳母と祖父

家光は秀忠とお江のあいだに生まれた(江戸時代、正室の子から将軍になったのは彼ひとり)。
幼名は竹千代。これ以前に長丸という子がいたが、正室の子ではなく、かつすでに亡くなっていたので、家光こそ実質的な長男であるといっていい。祖父と同じ「竹千代」の幼名を与えられたのも、「生まれながらの将軍」にふさわしい扱いであった。

しかし、弟・国松(後の忠長)が生まれたことで風向きが怪しくなる。お江は利発な弟を愛し、病弱で無口、引っ込み思案の兄にはさほどの愛情を注がなかった。
その影響を受け、父・秀忠さえ家光に距離を置くようになった。挙句、「忠長が次期将軍になるのでは」と噂が流れ、また思い悩んだ家光が少年ながら自殺を図る始末だ。

これに対して動いたのが、家光の乳母を務めていたお福(後の春日局)だ。彼女は家康のいる駿府に赴いて直談判を行う。これを受けた家康は江戸城に向かい、秀忠・お江夫婦に「竹千代を三代将軍にするべきだ」と伝え、これで家光の立場は安泰となった、というわけである。
この際のエピソードとして、江戸城で2人の孫に対面した家康は家光を上段に座らせ忠長をはるか下に座らせ目に見える形で忠長とは差を付けて扱った。また菓子を渡す際にも家光へは自ら渡したが忠長にはせず、お付きの者に対しても家光側と忠長側ヘの扱いに差を付けさせた、というものが伝わっている。

家康がわざわざ口出しをしてまで年長の家光を立てたのは、泰平の時代においては才覚や両親との関係よりも長幼の序を重視したほうがよい――そうでなければ、ふたりの兄弟それぞれに家臣団がついて内乱ということになりかねない、と考えたのだろう。

骨肉の争いと、祖父への崇拝

残念ながら、家光・忠長の兄弟関係はこれでめでたしめでたし、とはいかなかった。
父・秀忠としてはやはり忠長を厚遇したかったようで、駿河55万石の大名に封じた。ところが、長じた忠長は多くの問題を起こした。領土経営に熱心だったのはいいのだが、それはむしろ幕府から敵視される原因になった。
そのうえ、禁域に住む神獣を殺してしまうなど粗暴な振る舞いが目立ち、また「周囲の者たちを殺害したかと思ったらそれをすっかり忘れている」といった出来事まであったという。そこで、秀忠はとりあえず忠長を幽閉し、どうにか更生させられないか、と考えていたらしい。

――ところが、秀忠が1632年(寛永9年)に亡くなると、そうもいっていられなくなる。
父に遠慮していた家光が、目の上のたんこぶであった弟を一気に排除にかかったのだ。結果、領地を没収されたうえで新たな幽閉場所に移された忠長は、父の死から1年ほどで自殺に追い込まれてしまった。これは親藩大名としては唯一のことである。
天下泰平の時代なのに、いや、むしろ泰平の時代だからこそ、骨肉の争いは残酷な結末を迎えてしまったのだろうか。

このように家族との縁が薄かったゆえか、家光は自分を三代将軍に立ててくれた祖父・家康を深く敬愛した。それはもはや信仰の域に達していたかもしれない。
晩年にはたびたび夢の中で家康を見るようになり、そのとき狩野探幽に命じて描かせた「夢想の画像」が日光輪王寺に保存されていることや、日光東照宮の造営をさせたことなど、家光が祖父を慕っていたことを示すエピソードは枚挙に遑がない。

特にすごいのは、同じく日光輪王寺に保存されている守り袋にまつわるものだ。
その中に納められた紙には「生きるも死ぬもすべては大権現様(家康)次第」とか「二世権現、二世将軍」といった言葉が書かれている。前者は家康を完全に神格化しているし、後者は本当の二代将軍である父・秀忠をすっ飛ばして自分を二代目だといっている。
幼少期の出来事は、それほど彼に強い衝撃を与えていたのだ。

江戸幕府というシステムを完成させる

将軍として家光はどんな政治を行ったのだろうか。それは家康・秀忠と二代にわたって作り上げられてきた、江戸幕府というシステムを完成させる事業だった。
江戸時代の大名を象徴付ける制度ともいえる参勤交代が制度化されたのは、1635年(寛永12年)の武家諸法度大幅改定時のことである。
また、自らが病気がちになると、それまでのように将軍を頂点として何もかもが集中するようなシステムから、譜代の名門大名から選ばれた老中や若年寄といった役職のものたちが合議によって政治を執り行っていくシステムヘの転換を図った。さらにこの以前から、宗教関係は寺社奉行に、経理関係は勘定奉行に、と権限と役職の整理を行っている。

キリスト教の禁教は家康時代から進められていた。秀忠の時代にはそれまで活発だった外国貿易政策も転換し、中国以外の外国船は平戸・長崎にだけ来航を許されるようになった。
このような対外政策が完成し、ついに一部の例外を除いた外国人の来航禁止と日本人の出国禁止、いわゆる「鎖国体制」にまで発展したのは家光の時代のことだ。その過程では過酷なキリシタン(キリスト教徒)狩りが行われ、1637年(寛永14年)には大規模な武力反乱である島原の乱も起きているが、大軍によって鎮圧した。
ただ、必ずしもすべてに対して国を閉ざしたわけではなく、清(中国)や朝鮮との外交チャンネルは開いたままだし、ヨーロッパに対しても、オランダ人は長崎の封鎖地域「出島」を通してわずかながら行き来があった。

家光と「大奥」、家光と趣味

家光の時代に作られたものとしてもうひとつ、「大奥」の存在は見逃せない。
女性たちの生活空間としての「奥」という概念は以前からあったようなのだが、家光の代に春日局が主導する形で江戸城に大奥が誕生した。ここは将軍夫妻およびその子女、およびそれに仕える女中たちが多数居住する空間であり、外部とはまったく切り離されて、一部例外を除いて男子禁制の空間であった。

このように仰々しく「女の園」が作り上げられた原因は、徳川将軍家の血筋を確実に残すためだった、と考えられている。
実は家光は大変な男色趣味で、女性は好まなかったようなのだ。このことを反映するかのように、正室の鷹司孝子はひどく冷遇された。彼女は特別に作られた中の丸へ実質的に隔離され、将軍の正室の称号である「御台所」ではなく「中の丸殿」と呼ばれた。彼女自身の性格もよくなかったとはいうが、やはり家光が女性に興味を持たなかったことが大きいのではないか。

このことに対して春日局は大いに気をもんだというから、その延長線上として江戸城内に女性たちを大量に集めた、というのは納得のいく話だ。
大奥の存在が功を奏したのか、春日局が必死にさまざまな女性を世話したおかげか(好みに合わせて、美少年風の女性をいろいろと選んだらしい)、家光も女性に目覚めて側室を置くようになり、竹千代(後の四代将軍家綱)や国松(後の五代将軍綱吉)といった子をつくっている。

このように家光が変化するきっかけになった側室のひとりとして、お万の方という女性が知られている。
彼女は公家出身の尼僧だったのだが、どこか中性的な、すなわち家光好みの美貌だったらしい。あるいは、尼であったことも、家光の感性を刺激したのだろうか。ともかく、家光はすっかり彼女を気に入ってしまった。
お万の方はかなり強引な形で還俗させられ、家光の側室のひとりとなったのである。

派手好きだが武術も好き

最後に、家光の趣味嗜好の話をしよう。
家光は若いころから結構な派手好きだったという。化粧をして華やかな格好(これは女装で、彼の男色趣味とも深く結びついている)で踊るのを大変好んだ。このことを憂慮して諫めた重臣を蟄居させてしまった、という話まである。
一方で将軍の身でありながらふらりと外出するのが好きで、落語で有名な「目黒のサンマ」――お忍びで出かけた目黒でサンマを食べ、「サンマは目黒にかぎる」と思い込んでしまった殿様――のモデルは家光本人だ、ともいう。

もちろん、ただの遊び好きではない。家光は祖父・家康を倣ってか、武術にも熱心だった。
自ら剣術に励み、鷹狩りの回数は歴代将軍でも1位だ。病気で体を壊してからはそれもできなくなったようだが、その後は剣術の達人たちに試合を行わせ、見物するのを好んだというから、よほど好きだったのだろう。
一方で学問や和歌など教養もおろそかにせず、文武両道の人であったのだ。

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