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【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府5代・徳川綱吉――生類憐みの令を発した犬公方 1646年~1709年

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治世の前半は善政・「天和の治(てんなのち)」

綱吉は3代将軍・徳川家光の四男であり、上野国館林藩に25万石を与えられた親藩大名であった。1680年(延宝8年)、そんな彼が将軍となったのは、兄・徳川家綱が子を残さずにこの世を去ったからだ。
家綱時代に権勢を振るった大老・酒井忠清は徳川家の血筋がいくつも残っていたにもかかわらず、あえて後西天皇(ごさいてんのう)の皇子・幸仁親王(ゆきひとしんのう)を擁立しようとした、という。これに対し、綱吉を擁立する老中・堀田正俊(ほった まさとし)は病床の家綱を説得。これを了承した家綱が弟に「お前を養子にし、将軍職を継がせる」と伝えたので、5代将軍・綱吉が誕生した、というわけだ。

忠清はその直後に失脚し、正俊が新たな大老として「天和の治」と呼ばれる政治が進行する。これは正しい統治を行っていない大名、不正を犯す代官などを徹底的に処罰して綱紀の粛正を行い、またこれによって農政を改善して幕府の経営も正そうというもので、大きな効果を挙げたようだ。
ところが1684年(貞享元年)、その正俊が突如として死んでしまう。江戸城内で若年寄・稲葉正休(いなば まさやす)に襲われ、殺されてしまったのである。幕府の重鎮同士であり、また親族関係にあった彼らがなぜこのような事態に至ったのかは不明だ。

治世の後半は側用人政治

正俊を失った綱吉は、館林藩時代からの側近である牧野成貞(まきの なりさだ)を「側用人」という新設の役職に置いた。
彼が政治の一線から退くと、同じく昔からそばにいた柳沢吉保(やなぎさわ よしやす)を側用人とし、重用した。この側用人は将軍と老中の間の連絡役のようなものであり、結果として両者の関係は以前よりも遠くなった。
老中が直接将軍に自分の意思を伝えられなくなり、将軍親政に近い形になるとともに、その意思を伝達する側用人は非常に重要な役職となったのである――何せ、ときには彼らの言葉が将軍の言葉になったのだから。

特に吉保は綱吉の信任が厚く、諸大名は彼の屋敷に詰め掛けてどうにか自分の便宜を図ってもらおうとしたが、吉保は権勢を独占するようなこともなく、また綱吉の死後は潔く幕政から身を引いている。
それでも人々は彼を批判的に見たようで、「実は吉保の子である柳沢吉里は綱吉の隠し子であり、吉保と綱吉が彼を後継者にしようと画策したが、綱吉が正室・信子に殺害されたので頓挫した」という「柳沢騒動」が後世に創作された。

歴代将軍の中でも群を抜いた学問好きであったことも、忘れてはならない。
また、綱吉の性格を垣間見せるエピソードとして、オランダ商館員たちが挨拶に来たときのものがある。この際、綱吉は商館員の中にいた医師を質問攻めにして薬や病、その処置のことを熱心に聞きだしたという。
それだけなら学問好きの好奇心ですむのだが、綱吉は何を考えたのか商館員たちに芸を要求した。彼らはさぞ困っただろうが、ヨーロッパ人で唯一貿易を許されている特権を失いたくない一心からか、外国語の歌や踊り、片言の日本語などを披露した。これは綱吉以降の慣習となり、八代将軍・吉宗の時代まで続いた。

「生類憐みの令」は何のためだったのか

綱吉時代を象徴するのが「生類憐みの令」と呼ばれる一連の法令である。
始まりは生母・桂昌院(けいしょういん)が傾倒していた隆光(りゅうこう)という僧侶が、世継ぎの生まれないことを気に病んでいた綱吉に対して「それはあなた様が前世で生き物を殺したからです。現世で生き物を大事にすれば、前世の罪を償えるでしょう」と告げたことだったとされる(現在この説は疑問視されてもいる)。

これを信じた綱吉は1687年(貞享4年)より、あらゆる生き物の殺傷と虐待を禁じる法令を出し続けた。生類憐みの令自体は、「犬が喧嘩をしていたなら水をかけてやり、怪我をさせないようにする」など、慈愛の心を持つように求める側面が強かった。これは綱吉が儒教的精神で政治を進めていたこととも深くかかわっている。
また、生類憐みの令でいう「生類」は人間も含んでいたようだ。綱吉は「捨て子禁止令」も出し、捨て子や捨て病人、また旅先で病気になった者への保護を義務づけている。

だが、法を犯した者を島流しにするなど人に対しての罰は厳しく、さらに「放し飼いの犬が町中をうろつく」といった別の問題も出てきて人々は大いに苦しむことにもなってしまった。
ちなみに、特に犬が重視されたのは、綱吉が戌年生まれだったからだというが、一方で綱吉が愛犬家だったという確たる証拠も見つからず、単に当時の江戸において野犬が大きな問題だったからだ、という見方もある。

しかし、綱吉にどのような思いがあろうと、当時の江戸庶民はこれを「悪法」と見た。彼が麻疹で死ぬ前から「綱吉死す」と誤った噂がたびたび流れた――それほどに人々は彼を憎んだのである。

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