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【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府7代・徳川家継――最年少将軍も、治世は続かず…… 1709年~1716年

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「幼児将軍」の格を高めるために

幼名は世良田鍋松丸(せらた なべまつまる)で、「世良田」は徳川氏発祥の地に由来する(他の兄弟たちにも徳川氏のルーツである「新田」の姓が与えられた)。
家宣には7人の子がいたが、そのうち誕生まもなく死ななかったのは家継ひとりで、しかも家宣が亡くなった際にはまだ3歳だった。
3歳での就任は徳川将軍として最年少。そのような事情から、亡くなる直前の家宣が御三家の尾張徳川家に将軍を譲ろうと考えたが、新井白石(あらい はくせき)によって止められた。

白石としては「内乱を起こさないためにも、宗家の人間がいる限りは宗家で継承していくべきで、それでも絶えてしまったら御三家から選べばいい」と考えていたようだ。
家宣は遺言として御三家に「協力するように」と言い残しているが、もしかしたらここにも白石の言葉の影響があるのかもしれない。

こうして将軍となった家継であるが、もちろん幼児に実務が行えるはずもない。結果として、間部詮房(まなべ あきふさ)が後見人として補佐し、また白石が政策を立案する、という政治スタイルに落ち着いた。
だからといってふたりが実権を独占したわけではない。家宣時代には将軍が白石らの意見を修正し、拒否することもあったのに対し、家継時代には老中たちがふたりの政策に介入していったようだ。

そうして実務が進行しても、「幼児の将軍」ということで将軍の権威、ひいては幕府の権威が低下するのは避けられない。
軍事階級である武家の頂点に立つ幕府としてはなんらかの軍事的イベント・行政によって権威を強化するのがふさわしいかもしれないが、それを幼児に要求するのも無理がある。
そこで白石は「格」によって権威を高める道を選んだ。彼が幕政を主導していたこの時代に、儀式や典礼が重視されるようになり、全体的に身分が強く意識された。さらに服装の種類による序列も明確になった。結果、自然と「一番偉い人」としての将軍の権威は高まった、というわけだ。
さらに将軍就任の翌年、霊元天皇(れいげんてんのう)の皇女・八十宮吉子内親王(やその みや よしこ ないしんのう。このとき2歳!)を正室として迎えたのも、権威付けの一環と考えていいだろう。

利発な少年ではあったが……

では、その家継本人はどんな人物であったのか。
幼少ながらなかなか利発な子であったと伝えられ、「私的空間である奥と、公的空間である表をちゃんと区別し、きちんとけじめをつけていた」とか「礼儀作法も自然だった」などの逸話が残っている。
また、昼夜問わず傍につき従った詮房を大変に慕っており、「ときにわがままを言って周囲を困らせても、詮房の前ではおとなしくなった」「外出していた詮房を外で待ち、戻ってくると彼に抱かれる形で中に入った」というから、これはもう完全に親子である。
詮房は同僚の白石と対照的な温厚な性格であったというから、そこに幼児をなつかせる要素があったのだろうか。詮房のことを「まるで上様のようだ」と言った、とも伝わっている。

しかし、そんな家継も就任後数年でこの世を去る。わずか8歳での死であり、これによって徳川宗家は断絶してしまうのだった。

絵島・生島事件の背景

そんな家継の治世下において起きた大きな事件として、1714年(正徳4年)の「絵島・生島事件(えじま・いくしま じけん)」がある。
これは大奥年寄の絵島と宮路ら女中たちが墓参りのため増上寺ヘ外出したついでに芝居見物へ行き、そこで役者の生島新五郎らと酒宴に興じ、大奥の門限に間に合わなかった、というものだ。

このような芝居見物自体は当時いくらでもあったのだが、絵島が当時の大奥を二分する勢力のうち、月光院(げっこういん=家継生母)の派閥の有力人物だったことが問題だった。この問限破りは対立する天英院(てんえいいん=家宣正室)の派閥にとっては絶好の攻撃材料となり、厳しい調査と処分が行われた、という。
また、そもそも大奥が華美で浪費がち、かつ風紀が乱れていたことから、白石らが綱紀の粛正を狙ってこのように厳しく罰した、という見方もある。

大奥という庶民には触れようのない女の園で起きたということもあって、この事件は江戸中の評判となり、多様な創作のモチーフとなり、現代でもドラマや映画などの素材になっている。

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