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【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府11代・徳川家斉――40人の側室、55人の子をもうけた好色家 1773年~1841年

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寛政の改革――清すぎる水に魚は住めない

幼名は豊千代。将軍在職期間50年は代々の将軍の中でも飛び抜けて長く、その地位を退いた後も、大御所として実権を握った。
家斉は御三卿・一橋家の治斉(はるさだ)の子として生まれ、1787年(天明7年)に15歳で将軍に就任した。それからしばらくは先代のころに権勢を誇った田沼意次の一派と、その失脚に奔走した松平定信の一派による勢力争いが続いたが、各地で打ちこわしが起こったことから田沼派が失脚。定信が老中首座に就任し、以後幕政の主導権を獲得する。

定信は御三卿・田安家の出身で、実は先代将軍の家治は彼をこそ後継者にしようとしたが、田沼意次や一橋治斉らの画策によって白河松平家に養子に出された、という経緯のある人物だ。
天明の大飢饉においても倹約と困窮対策によって自分の領地である白河藩の被害を最小限に抑えるなど才覚に優れ、「吉宗の孫」と血筋も高貴であり、のちには四代将軍・徳川家綱時代の保科正之以来である将軍補佐職にまでなった。
その定信が進めた一連の改革を「寛政の改革」と総称する。

この改革の基本コンセプトは「田沼時代の粛正」と「享保の改革の再現」の2つの言葉で説明できる。
重商主義を撤廃し、重農主義に回帰しようとしたのである。そのため、厳しい倹約令が打ち出され、華美な風俗は禁止され、たとえば大奥の経費も3分の2にまで削ってしまった。もちろん農業も重視され、荒廃して放棄された農村に補助金を与えてまで人を返している。天災対策の備蓄や、農村から流出した人々に仕事を与えるために人足寄場を設置したり、といった政策も行われた。

しかし、彼は田沼時代への反動からか、あまりにも清廉な政治をしようとし過ぎた。
激烈な締め付けに人々の不満が鬱積し、「白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき」などという狂歌が歌われたほどだ。

「尊号一件」と定信の失脚

そんな定信が失脚する大きなきっかけになった事件として、「尊号一件(そんごういっけん)」がある。
事の発端は、1791年(寛政3年)に時の光格天皇(こうかくてんのう)が実父の閑院宮典仁親王(かんいんのみや すけひとしんのう)に、本来は先の天皇の尊号である「太上天皇」を贈ろうとしたことだった。この件は定信の強烈な反対によって流れてしまい、朝幕関係を緊張させてしまう。

なぜ彼がそこまで反対したかといえば、幕府でもちょうど同じような問題が起きていたからだとされる。実は、家斉もまた実父・治斉を「大御所」、つまり先の将軍扱いしようとしていたのだ。
治斉はかつて将軍になろうとしてかなわなかった人物であるから、その無念が背景にあったのだろうか。

ともあれ、この事件を機に家斉と定信の間は険悪になってしまった。
そこで、定信は「家斉様も成長なされたので」と将軍補佐職辞任の意思を示した。本人としてはいったん距離を置こうくらいの気持ちだったのかもしれないが、家斉はこれを好機と見て老中の職まで取り上げてしまった。こうして寛政の改革は頓挫したのである。
一説には大奥を締め付けすぎてその反感を買ったのが原因である、ともいう。

ただし、定信失脚後も彼と意を同じくする「寛政の遺老」と呼ばれる重臣たちが残って政治を主導したため、しばらくは寛政の改革の路線が続いた。

あっという間に元通り

幕政の方針が大きく転換したのは1818年(文政元年)、松平信明(まつだいら のぶあきら)が老中から退き、代わって水野忠成(みずの ただあきら)が実権を掌握したときのことである。
忠成は家斉の側近であり、将軍がこのころにはすっかり政治への関心を失って遊びほうけていたのをいいことに、政治をほしいままにした。この時期、賄賂政治の横行ぶりは往年の田沼時代もかくやというものであり、先の定信時代の狂歌に付け加える形で、「水の(野)出て 元の田沼となりにけり」と揶揄されるに至った。

また、家斉の治世の終盤期である天保年間は、天保の飢饉と呼ばれる大飢饉が続き、各地では一揆や打ちこわしが頻発した。それどころか1837年(天保8年)には大坂で元与力の学者・大塩平八郎が武力反乱に踏み切る始末だった。
彼は与力時代から庶民の人気が高く、飢饉で苦しむ人々をどうにか救おうと奔走した人物であったが、もはやこの危機から日本を救うためには実力行使によって幕府へ抗議するしかない、と挙兵したのだ。結局、この事件は幕府軍によって鎮圧され、平八郎がひそかに準備していた不正告発の書状も届かず、ついに彼は爆死して果てた、という。

このように悪化を続ける国内情勢の結果として幕府財政は困窮の一途をたどるのだが、問題はそれだけではない。他ならぬ家斉とその家族が莫大な浪費を行い、ただでさえ弱っていた財政に大きなダメージを与えたのである。
家斉は大変な好色家であり、40人もの側室を抱え、実に55人もの子をもうけた。ところがこのうち成人したのは半分に満たない25人とされている(数字は諸説あり)。

ともあれ、幕府としては生まれてきた子どもたちの世話をしなければならない。
仮にも将軍の子であるから、彼らの養育費はすさまじいものだ。当時貴重品であった白砂糖をおやつのために1日600キロ使用した、という話からも財政への負担がお分かりいただけるかと思う。
そのうえ、将軍の子をそのまま置いておくわけにもいかず、養子や嫁入り先を半ば無理やりにでも探す必要があった。このことによって縁戚関係ができた大名に対して家斉の影響力は強化されたが、一方で家斉の子が入った家に対しては優遇政策をとったので、他の大名からは当然のように反発された。

側室を通じて権勢を振るった「父」たち

家斉の数多くの側室のうち、特にその名が知られているのがお美代の方である。
彼女はもともと智泉院(ちせんいん)の日啓という僧侶の娘だが、美貌と才覚はずば抜けていたらしい。そこに目をつけた家斉近臣の中野清茂(なかの きよしげ=碩翁)が養女として大奥に入れたところ、思惑通りに家斉の寵愛を受けるようになった。
これで養父・中野清茂は大いに出世したし、実父・日啓も絶大な力を振るうようになった。彼の智泉院は将軍御祈禱所取扱所となり、また娘を通してか怪しげな祈禱の効果があったのか、大奥とも深いつながりを作った。

さらに家斉に願って新たに感応寺(かんのうじ)という寺を建立し、ここが「江戸の新名所」などともてはやされる始末であった。
一説には、この感応寺に大奥女中たちが長持ちに隠れる形でこっそり訪れ、みだらな行為にふけっていた、ともいう。このような話が広まるくらいに、当時の世相を反映して、大奥の風紀も乱れていたのだろう。

また、家斉実父の一橋治斉(穆翁)、家斉の正室の父である島津重豪(しまづ しげひで=栄翁)、そしてこのお美代の方の養父・清茂(碩翁)の三翁はそれぞれ家斉の「父」的存在であるわけだが、彼らがあまりにも豪奢な生活を送っていたので、人々は彼らを「天下の楽しみに先立って楽しむ」と評したという。
結局、家斉は50年にわたって将軍職に居座った。太政大臣の栄誉にも輝き(生前にこの地位を得たのは足利義満や徳川家康・秀忠などごくわずか)、1837年(天保8年)に子の家慶に譲った後も大御所として、亡くなるまでその発言力を保持し続けたのだ。

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