攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府12代・徳川家慶――幕政にかかわらなかった「そうせい」様 1793年~1853年

こちらもご覧ください!(広告掲載のご案内

天保の改革――吉宗時代への回帰

幼名は敏次郎。幕府の衰退と外国からの圧迫にさらされた国難の時代の将軍ではあるが、性格は温厚であって積極的に幕政へかかわる人ではなかった。
11代将軍・徳川家斉の次男として生まれ、1837年(天保8年)に将軍職を継承する。しばらくは大御所・家斉が実権を握ったため、彼の政治が始まったのは父の亡くなった1841年(天保12年)以降のことである。
それ以前は将軍であるにもかかわらず幕政にかかわることができず、何をいわれても「そうせい」と返すしかなかったため、「そうせい様」と揶揄された。

まず、家慶は老中首座の水野忠邦(みずの ただくに)に命じて、旧家斉派を一気に処罰させた。政治を壟断(ろうだん=利権を独占)した家斉側近たちを政治から追放しただけでなく、家斉時代に膨れ上がっていた大奥女中たちも大量解雇したのである。お美代の方と日啓も、このとき忠邦によって厳しい処罰を受けている。
一説によると、このころお美代の方ら家斉派の人々は家斉の娘を妻に迎えていた前田犬千代丸を擁立しようと画策し、家斉正室に働きかけたものの失敗した、という。ただ、この話はあまりにも無理があるので、忠邦側のプロパガンダと思われる。

このような過去の清算を済ませた上で、忠邦が取り掛かったのが江戸時代三大革命最後となる「天保の改革」である。家慶は直接それらの政治に携わったわけではないが、父の死をきっかけに旧時代と決別する判断を下したことは評価されるべきだろう。
また、家慶が忠邦に目をつけたきっかけとして「家臣たちが家慶に花を献上した際、忠邦ひとりが質素な、自ら丹精して育てた花を用意した」というものが知られている。父に幕政の全てを握られつつも、吉宗時代のような強力な幕政改革を行いたかったという家慶にとって、忠邦の花は質実剛健の象徴のように感じられたのであろう。父・家斉の贅沢三味の退廃的な生活への反感も、そこに乗せられていたはずだ。

その天保の改革とはどんなものだったのか。
スローガンとして掲げられたのは「享保の改革に戻る」ことであり、寛政の改革と方針を同じくする。結果、厳しい倹約が命じられ、落語や芝居、出版物など風紀に悪影響を与えると考えられたものが取り締まられた。
また、江戸の人口爆発と農村の荒廃を改善するために人返しの法が定められ、都市人口を積極的に農村へ移した。同じく問題になっていた物価の高騰に対しては株仲間の解散で対応しようとしたが、これは効果がなかった。

外からの圧力に苦しむ

家慶の時代、幕府が抱えてきた問題は財政危機ばかりではなかった。
実は以前から列強諸外国の船がたびたび現れ、開国を求めていたのである。
幕府は鎖国を守るために「外国船が出現したら攻撃しろ」という指示を出していたのだが、1840年(天保11年)から勃発したアヘン戦争のニュースがその方針を変えさせた。東アジアの盟主であったはずの清(中国)がイギリスの前に敗北したのである。そこで、戦争を回避するために攻撃するのはやめ、代わりに食料や燃料を与えることになった。

それでも、戦争の可能性が消えたわけではない。
そこで1843年(天保14年)、上知令(じょうちれい、あげちれい)という法令が出された。これは、江戸と大坂周辺の土地を幕府に返還させ、この地域を直轄地として整理することで守りを固めようと考えたのである。
また、これらの地域は当然ながら経済的に豊かだったので、幕府の収入も上がる、という一石二鳥の政策だった。
しかし、残念ながらこれが天保の改革頓挫のきっかけになってしまう。領地を取り上げられそうになった大名や旗本たちが猛反発し、上知令は撤回に追い込まれてしまったのである。忠邦は失脚し、改革はわずか2年で終わった。

改革が失敗しても、財政危機と海外からの圧迫は消えない。新たに阿部正弘が老中首座として起用され、このふたつの問題に取り掛かることになった。
そんな中で1853年(嘉永6年)、アメリカのペリー艦隊が浦賀に来航し、開国を要求する大統領の手紙を渡し、翌年の再来航を約束して去った。このとき、家慶は病床にあって報告を受けておらず、正弘によって死の間際に伝えられると御三家の水戸藩主・徳川斉昭(とくがわ なりあき)に相談するよう命じた。

結局、家慶は阿部正弘、徳川斉昭の両者に後事を託す形でこの世を去る。
しかし、前者は国難の時代に強力なリーダーシップを発揮できなかった。むしろ朝廷や諸大名に対外政策について意見を求めたため、幕府権威の低下と朝廷や外様大名らの積極的な政治参加を招いた。後者は強烈な攘夷論(外国を排除するべき、という思想)を展開し、幕政を大いに混乱させる。ふたりの行く末を、あの世の家慶が見ていたとしたらなんと言っただろうか。

また、この人は遺骨が発掘されている。
それによると当時の一般よりも小柄な体格で、細長い顔をしており、印象に残る容貌だったろう、とされている。

フィードバックのお願い

攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック

読者投稿欄

いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する