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【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府14代・徳川家茂――血筋で選ばれた貴族的将軍 1846年~1866年

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公武合体の象徴として

父は御三家の紀伊藩主・徳川斉順(とくがわ なりゆき)だが、この人は11代将軍・家斉の子で、養子として紀伊藩に入った、という経緯がある。安政将軍継嗣問題で血筋を重視する譜代大名らが彼を担ぎ上げたのは、この将軍家との血筋の近さが理由だった。
家茂は穏やかな性格の持ち主で下からの人気もあり、貴族的な容貌の持ち主だった。
1858年(安政5年)に将軍として擁立されたが、このときは弱冠14歳だったため、御三卿の田安慶頼(たやす よしより)が後見人としてついている(3年後に解任)。活発な少年で、しばしば虫や動物などを追いかけては家臣たちを困惑させたという。

幕末の動乱期の将軍だけあって、家茂の治世は当初から波乱含みであった。
彼を将軍に押し上げた最大の立役者である大老・井伊直弼は、その年の内に一橋派として徳川慶喜を擁立した者たちや尊王攘夷派などを徹底的に処罰する「安政の大獄」を起こすが、それによって恨みを買ってしまい、1860年(万延元年)には暗殺されてしまう。
これが「桜田門外の変」だ。

生まれる前に父を亡くしていた家茂にとって直弼は父親のような存在だったのか、彼のいうことなら素直に聞いたとされる。それだけに直弼の死には強い衝撃を受け、しばらく食欲を失ったという。
その後に幕政の第一線に立ったのは老中・安藤信正(あんどう のぶまさ)で、この人はすっかり地に落ちてしまった将軍と幕府の権威を回復させるため、公武合体政策を推進した。すなわち、家茂の正室として時の孝明天皇(こうめいてんのう)の妹・皇女和宮(かずのみや)を迎えることで、公=朝廷と武=幕府が手を携えてさまざまな問題に立ち向かっていく形を作ろうとしたのだ。かつて、初代・家康、2代・秀忠のころには朝廷を徹底的に政治から排除しようとしたことを考えると隔世の感があり、それほどに幕府が衰退していたことの象徴といえる。

家茂と和宮の関係は大変良好だったようだ。
その仲むつまじい生活は、和宮が江戸城において京風の生活をすることを許し、また「天皇の娘」である彼女のことをきちんと立ててあげた家茂の度量の大きさによる部分が大きいように思われる。家茂が将軍には珍しく側室を持たなかったのも、そうした器の大きさ、優しさの一面であろうか。
しかし、過激な尊王攘夷論者の中には両者の結婚そのものを「不敬」と見るものもいて、1862年(文久2年)に和宮が降嫁する直前、これを主導した信正が襲撃を受け、命は助かったものの失脚してしまう。「坂下門外の変」である。

こうして幕府主導の公武合体路線は頓挫するが、薩摩藩など雄藩の藩主が幕政に介入し、この路線は継続されていく。徳川慶喜が将軍後見になったのもそうした介入の一環である。

自ら出陣しながら……

一方、長州藩を中心に尊王攘夷運動が盛り上がり、朝廷での主導権を得ていた。こうした運動の背景には、開国の影響で物価が高騰し、庶民に不満が募っていたこともあるようだ。
1863年(文久3年)には家茂が自ら上洛して朝廷の体制を変えようとしたがかなわず、むしろ攘夷の期限を定められてしまう始末だった。
その後、薩摩藩・会津藩の尽力によって朝廷の尊王攘夷派は主導権を失い、翌年には長州藩が武力によって逆転を狙うも失敗(禁門の変)。これに乗じるべく幕府は長州藩を攻撃して降伏させる。
ところがその後、親幕府でまとまるかに見えた長州藩内部でクーデターが起き、討幕派が主導権を得てしまう。

このように一進一退を繰り返す情勢の中で、家茂は幕府の権威復活を目指して自ら兵を率い、第二次長州征伐を行う。
しかし朝廷はなかなか長州への攻撃を認めなかったので、彼は大坂に足止め状態になってしまった。さらには、通商条約の勅許と兵庫の開港を求める諸外国と、これを認めないでむしろ幕府の人事に介入してくる朝廷との間で幕府が板ばさみになり、家茂は「将軍を辞職する」という辞表を出すにいたった。
結局、慶喜が家茂を説得して辞表を撤回させるとともに、条約勅許を取り付け、一旦は丸く収まっている。

1866年(慶応2年)、ようやく第二次長州征伐が始まった。
ところが、このころ密かに薩摩藩と結びついていた長州藩は小勢ながら強大な軍事力を備えており、幕府は大敗する。
大坂城で病に倒れていた家茂がこの世を去ったのは、まさにそんな劣勢の中でのことだった。精神的なショックが大きかったのだろう。また脚気の症状が見られたほか、後世に行われた遺骨の鑑定によると「虫歯だらけだった」ともいい、体調悪化の一因だったのでは、と考えられている。

未亡人となった和宮は頭を剃って静寛院宮となり、京には戻らず江戸に残った。
数年後に訪れる徳川将軍家の危機に奔走し、亡くなる際には夫と同じ墓に入ることを望んだ。公武合体政策は破綻したが、家茂と和宮には深い絆が結ばれていたのである。

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