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【殿様の左遷栄転物語】第1章「天下分け目」のその後で 負けた後こそ正念場

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吹き荒れる「処分の嵐」

江戸幕府は全国の諸大名にかなり高度な自治を認めたが、だからといって大名たちを野放しにしたわけではない。さまざまな形で彼らの行動や財政に縛りをかけ、統制することで、諸大名による武力反乱を抑止し、幕府および徳川家を頂点とした支配構造が揺るがないように、そして再び時代が戦国の世に逆戻りすることがないようにしていた。このあたりについては別の連載シリーズで詳述したので、よろしければそちらも併せてご一読いただければ幸いである。

さて、幕府による大名統制手段の筆頭は改易処分――所領を没収してしまうことだった。
数多くの大名が改易処分を受けて、お家断絶の憂き目にあったのだが、特に多くの大名が取り潰されたのは、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い直後のことである。
豊臣秀吉死後の豊臣政権において最大の有力者であり、かつ関ヶ原の戦いで石田三成ら敵対勢力を打ち破った徳川家康は、三成に味方した大名や中立を維持しようとした大名を次々と改易・減封処分にした。これらの処分を受けた大名の数は実に90を超える(改易88、減封5)。

そのなかには、たとえば大谷吉継のように関ヶ原の激戦の中で討ち死にした者もいる。西軍の首脳部を構成した三成や安国寺恵瓊らは捕らえられ、処刑された。また、三成派の中心的人物であり豊臣政権でも大きな位置を占めていた宇喜多秀家は殺されこそしなかったものの、所領をすべて没収されて伊豆八丈島に流され、そこで生涯を終えた。
ただ、三成に協力しただけの西軍参加大名たちは基本的に改易止まりで、処刑にまではいたらなかったようだ。

しかし、必ずしもすべての大名たちが家を完全に断絶されてしまった、というわけではない。少なくない数の家が旗本や藩士として再興しているし、以前より大きく所領を減らしながらも何とか大名として復活した者もいる。
面白いところでは、茶人や造園家として名高い上田重安の名があがる。関ヶ原の戦いで西軍について敗れ、1万石の所領を失ったものの、妻の縁をたどって浅野家を頼り、その藩で1万石を超える所領を与えられている。広島藩士の家督は彼の次男が継承し、また長男は幕府に召しだされて、旗本として家系が残っている。

そして、ごく少数ながら以前と同じ、あるいはそれ以上の所領を得るにいたった大名がいる。現代でいえば、「1度派閥闘争に敗れて僻地に左遷された重役が、そこそこの地位であっても支社長などの形で復帰した」というところだろう。
この章では、そうした「関ヶ原復活組」の主要な大名を紹介し、彼らの抱えていたそれぞれの事情と、どうやって復活にこぎつけたのか、その背景に迫っていきたい。いくさの後で、いきなり正念場に立たされた大名たちの生き方とは、どんなものだったのか――?

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