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【殿様の左遷栄転物語】天下無敵の勇将 立花宗茂

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「天下無双」「九州の一物」

関ヶ原後の再興大名の代表格としては、九州の雄・立花宗茂がいる。
ある時、豊臣秀吉が東西ふたりの武将を「天下無双」と褒めたことがある。東は本多忠勝――徳川家康の下で50を超える戦いに参加し、1度も手傷を負わなかったという豪傑だ。これほどの男と並び称されたのは、その頃20代の若武者ながら、忠義の心と武勇の両方をそろって称えられた傑物――それこそが宗茂だ。

ちなみにこのふたりは秀吉によって引き合わされて意気投合し、年長者の忠勝がさまざまな話を聞かせるようになった、と伝わる。その中に「上の立場の人間は下の人間の短所がよくわかるが、だからといってそのまま責めてしまっては相手の逃げ場がなくなってよくない」という話があった。人事にまつわるエピソードとして興味深い。

さて、この宗茂は少なからず複雑な筋道をたどった男であった。父は九州で威勢を振るった大友家の重鎮、高橋紹運。元は大友一族の吉弘家出身だが、一族の名門・高橋家が謀反によって断絶の危機に陥ったため、養子に入った人物である。
本来なら長男である宗茂がその跡を継ぐはずだったのが、紹運と並び称される重鎮である立花城主・立花道雪が強く望んだことから、婿養子として立花家を継ぐことになった。「婿」養子であるから、もちろんこの時に宗茂は道雪の娘と結婚している。彼女の名は誾千代。1度は家督を譲られ、立花城の女城主となったほどの女傑である。それほど気が強かったのが影響したか、両者の間に子が生まれることはなかった。

宗茂が立花家を継いだ頃、主家である大友家は未曾有の危機に遭遇していた。戦国時代終盤、大友宗麟のもとで全盛期を迎えたこの家は、その宗麟が進めたキリスト教化によって内部に混乱をきたし、また九州南部から躍進した島津家の圧迫に苦しんで、急激な衰退を迎えていたのである。
これを支えていたのが宗茂のふたりの父――養父の道雪と実父の紹運だった。最終的には道雪は病没し、紹運は島津の大軍に対して小勢で挑んで玉砕した。しかし、彼らの稼いだ時間が功を奏した部分もあって、豊臣家支配下の諸大名の軍勢が九州に来援し、大友家は滅亡を免れることになった。

この戦いの中で宗茂もまた豊臣方として戦い、その活躍を秀吉によって「九州の一物」と褒められた。そのためか、秀吉は彼を大友家の家臣としてではなく自らの直臣として取り立て、筑後に13万2千石余を与え柳川城主とした。この時点で宗茂と大友家の縁はほぼ切れ、ここから独立大名・立花家の歴史が始まった、といえよう。
冒頭のエピソードにも象徴されるように、秀吉は宗茂をかなり評価し、気に入っていたらしい。「羽柴」と「豊臣」の氏姓を与えた(当時、秀吉は臣従する多数の者たちにこれらの名前を下賜した)。宗茂もまたこの評価に応え、二度の朝鮮出兵に参加して活躍している。

西軍についた宗茂

その秀吉が死ぬと彼の築いた豊臣政権は分裂し、家康の率いる東軍と三成の率いる西軍による天下分け目の関ヶ原の戦いが始まる。
この際、宗茂は西軍に参加しているが、その理由はよくわかっていない。武名の高い宗茂に対して家康が勧誘をしなかったわけもなく、実際に宗茂が戦いへ参加するために九州から近畿へ向かうにあたって、東軍に加担した熊本の加藤清正だけでなく家康自身も、思い直すよう呼びかけた、とされる。にもかかわらず宗茂が西軍についたのは、前述したような秀吉の寵愛に対する恩返し、および豊臣家との結びつきがあったのかもしれない。

とはいえ、宗茂は美濃国は関ヶ原での決戦には参加しなかった。東軍側についた京極高次(淀殿の妹・お初の夫として有名)の籠もる大津城攻略に参加していたからである。この城が落ちたのと関ヶ原の戦いの終結は同日(9月15日)であった。三成が敗れたことを知った宗茂は豊臣家の本拠地である大坂城に入り、徹底抗戦を主張したものの受け入れられず、やむなく九州へ戻って柳川城に籠もった。

九州では立花家の旧主人である大友義統(宗麟の子)が、西軍側について兵を挙げていたもののすでに敗れていた。宗茂の籠もる柳川城も加藤・黒田・鍋島といった東軍側諸大名の軍勢に囲まれて追い詰められる。結局、家康から所領を安堵する旨の手紙がついたこと、また以前から宗茂に友好的だった加藤清正の働きかけがあったことで、和睦となった。
その後、宗茂は和睦条件にしたがって城を開け、西軍側として頑強に戦い続けていた島津家に対する先鋒を任せられることになる。とはいっても、この頃にはかつて激しく対立していた立花・島津の関係は良好なものとなっており(関ヶ原からの帰路、「紹運の仇をとろう」と血気にはやる部下たちを宗茂が諫めて島津側から感謝された、というエピソードも残っている)、和睦交渉の仲介という側面が強かったようで、実際には戦わなかった。

浪人生活は苦しかったか?

前述したような家康の手紙があったにもかかわらず、宗茂は改易処分を受け、柳川の領地を没収されてしまう。しかしそれ以上の処罰がなかったのは、島津の降伏に一役かったからという理由もあるだろうし、また『徳川実紀』が「この時黒田 加藤等 みづからの勤賞にかへて 宗茂が事なげき申ければ その罪はゆるされて」と語るように、以前から親交のあった諸大名による働きかけも功を奏したのだろう。

宗茂はしばらくの間、加藤家の領内に留まった。関ヶ原の戦いの翌年、家臣団を加藤清正に預け、自らは京に出て浪人生活を送ることになる。目的はもちろん立花家再興であった。この際の生活については「朝夕の食事に差し支えることもあった」などという逸話もあるが、実際には加藤家や旧家臣団からの援助もあって経済的に困窮はしなかっただろう、と考えられている。

しかし、徳川家および江戸幕府から望むような反応を引き出すことはなかなかできず、諸方面に手配りをしながらも焦っていたらしきことが当時の宗茂の手紙からわかる。また、この時期には加賀の前田利長から「10万石で仕えないか」と誘われたが断った、という逸話も残っている。関ヶ原後に他藩に仕えた大名が珍しくないのは前述したとおりだが、宗茂としてはあくまで独立大名として返り咲きたいという思いがあったのだろうか。

この浪人生活にピリオドが打たれたのは、1603年(慶長8年)あるいは1606年(慶長11年)に江戸へ出て、本多正信の手引きを受けて時の将軍・徳川秀忠に謁見したことからだった。まず5千石を受けて旗本の書院番頭となり、その後、陸奥棚倉に1万石(後に3万石へ加増)を与えられて大名に復帰したとされるが、この過程については諸説あるのが実際のところだ。
もともと積極的に敵対していたわけではないこと、宗茂の武名を惜しんだこと、各方面からの働きかけ(加藤や黒田といった諸大名はもちろん、冒頭に紹介した本多忠勝との親交なども有利に働いたかもしれない)があったことなどが再興の要因だったろう。

旧領時代の家臣団の多くは加藤家に預けられていた。そのうち一部は棚倉藩においても宗茂に付き従ったが、大名復帰をきっかけとしてその多くがそのまま加藤家の家臣となった。これは3万石では13万石時代の家臣団すべてを養うことができないからである。それ以外にも、黒田家など他家へ仕官した者もいたようだ。
ちなみに、宗茂の弟で高橋家を継いでいた直次も関ヶ原の戦い後に改易となったが、1613年(慶長18年)に旗本として復興している。その過程で「立花」に改姓し、子の代には加増されて大名になり、筑後に三池藩立花家が成立した。

将軍が信頼した勇将

宗茂にとって次の大きな転機となったのが1614年(慶長19年)~1615年(元和元年)の大坂の陣――幕府と豊臣家の関係が悪化した結果、冬の陣、夏の陣と二度にわたって幕府勢が豊臣家の本拠地である大坂城を攻め立て、ついに滅ぼしてしまった一連の戦いである。
この戦いにおいて、宗茂は二度とも幕府側として参戦している。具体的にどのような活躍をしたかははっきりしない。ただ、少なくとも夏の陣においては秀忠の旗本(この場合は大将を守る親衛隊程度の意味)として参戦し、あまり実戦にはかかわらなかったらしいことがわかっている。

この時期の宗茂についていくつかのエピソードが伝わっているので、紹介しよう。
若年の秀忠を心配した家康が、律儀でかつ老練な武将が相談役に必要だと宗茂を抜櫂したというものや、宗茂が秀忠に対して「秀吉には恩がありますが、一方で妻を人質同然の状態に置かれたことへの恨みのようなものもあります。また、関ヶ原の戦いでは家を潰してまで豊臣家のために働いたので、今度は再興の恩がある徳川家のために働きます」と宣言した、というものである。

あるいは、実際の合戦において――。いよいよ大坂城を攻めるにあたって、宗茂は秀忠に「もう少し後ろに本陣を築いたほうがよいでしょう」とアドバイスしたが聞き入れられず、実際に秀忠の軍勢は劣勢に追い込まれてしまった。これに懲りた秀忠が陣を後ろに引こうとすると、今度は「敵が息切れしているので、今はむしろ味方の士気を上げるために前に出るべきです」とアドバイスした。これこそまさに歴戦の勇将の戦術眼というべきものである。

また、大坂の陣ではないが、こんな話もある。ある時、幕府が東海道の浜名湖のほとり、「荒井(新居)の渡」と呼ばれる場所に橋を架けたのが問題になった。秀忠がここは古くから戦略上の要所として知られる場所で、防衛のことを考えれば橋がないほうが有利なのだ、と激しく怒ったのだ。困った老中たちは宗茂を呼び出し、どうにか機嫌をとってくれないか、と頼み込んだ。
そこで宗茂は「たしかに戦乱の時代には荒井の渡は重要な場所でしたが、今は2代将軍である上様の御威光によって天下はこれまでにないほど泰平なので、橋を架けないでいる必要がないのです」といった意味のことを話した。これには秀忠もすっかり機嫌をよくして、老中たちは宗茂に大いに感謝した、という。

これらの逸話の数々がどこまで真実であるかは定かではないが、本当ならば家康と秀忠が宗茂の才覚と忠義心に強く信頼を置いていた、ということなのだろう。

涙ながらの旧領復帰

そのような評価に大坂の陣での戦功が加わる形で1620年(元和6年)、ついに宗茂は懐かしき旧領・筑後柳川に復帰することを許された。10万9千石余と以前より石高は減ってしまったものの、さぞ嬉しい帰還であったことだろう。この転封に際しては遠い僻地に飛ばされたにもかかわらずそれに対して恨むことなく誠実につとめたことを評価する言葉が秀忠から掛けられ、宗茂は涙ながらにそれを受けた、などという逸話も残っている。

その後も宗茂は秀忠の「御伽衆」に選ばれてさまざまな話――多くが織田信長時代から戦場を駆けた武将であったから、武功話が中心であったろう――を語っているので、彼に対する将軍からの信頼は変わらなかったようだ。
1636年(寛永13年)には弟の子で養子にとっていた忠茂に跡を継がせて隠居しているものの、翌年に勃発した島原の乱には自ら参加しているから、まだまだ老いてはいなかったらしい。立花家はその後も柳川の地で続き、明治維新にいたっている。

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