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【殿様の左遷栄転物語】第2章 目指せ「お家再興」 失職したけど地位を回復

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改易にまつわる事情

第1章で紹介したように、江戸幕府は改易を大名統制のための手段として活用した。
「俺のいうことを聞かなければ潰してやるぞ」というのは、シンプルだが大変効果的な手段である。それが幕府という絶対的な権力をバックにいい渡されるのなら、なおさらだ。

特に江戸時代初期には豊臣秀吉との縁が深かった有力外様大名が次々と改易されている。
彼らの多くは関ヶ原の戦いで東軍についた。また、大坂の陣において豊臣方に味方した大名はいなかった。それでもなお、幕府から見れば「危険要素」であったのだろう。そのような危険要素を排除するにあたって、何らかの理由(「武家諸法度」違反)をつけての改易処分というのは非常に都合がよかったはずだ。そのような幕府の魔の手から逃れるために諸藩は大いに気を使って、たとえばすでに決まっていた嫡子をわざわざ廃したりした

また、改易されたのはそうした豊臣系の外様大名ばかりではない。
むしろ徳川一族である親藩大名は「将軍の地位をめぐるライバル」と見られて取り潰され、あるいは厳しく監視されたふしがある。また古くからの徳川家臣が大名となった譜代大名もまた、少なくない数が改易を受けている。

そのような改易の流れも5代将軍・綱吉の頃で一段落して、改易の数はぐっと減る。また、そもそも「当主が死罪で家は改易、お家復興の道は完全に閉ざされる」というケース自体が大坂の陣・島原の乱のあとは見られなくなって、何らかの形(小大名、旗本、藩士、あるいは大庄屋など)で、お家再興を遂げるケースは決して珍しくない。
この章で紹介するのは、そうした再興大名たち――現代風にいうなら、「一度左遷あるいは失職したが再びある程度のクラスまで地位を取り戻した」人々である。

改易にまつわる3つの理由

関ヶ原の戦い後の戦後処理で多くの大名が改易されたのはすでに紹介したとおりだが、このような軍事的要因での改易というのは家康・秀忠の代で絶えてなくなる。合戦自体が日本から消えたのだから当たり前だ。
その後の改易要因というのは大きく分けて二種類ある。

ひとつは「無嗣断絶」――すなわち、後継者のいないままに当主が死んでしまったケースだ。
しかし、江戸時代初期にあまりにも多くの大名が改易された結果として世に浪人があふれて治安が悪化し、ついに1651年(慶安4年)、通称「由井正雪の乱」(慶安の変)と呼ばれる事件が起きた。軍学者・由井正雪を中心とする浪人集団が幕府転覆をもくろんだとされるこの事件は大事になる前に鎮圧されたものの、幕府は大きな衝撃を受けた。

この事件がきっかけになって、幕府は末期養子の禁止を条件付きで撤廃した。この条件も後には撤廃され、無嗣断絶というケースは大きくその数を減らすことになる。
もうひとつは「武家諸法度」違反である。つまり、法律を破ったことへの罰として家を取り潰す、というわけだ。細かい内容としては「城を勝手に改築・修復した」「藩政を混乱させた」「刃傷騒ぎを起こした」「振る舞いが悪かった」「乱心してしまった」「罪人を隠した」「親戚・関係者が罪を犯し、連座した」などがある。

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