「大久保党」の活躍
改易から再興へのドラマをたどったのは豊臣恩顧の外様大名ばかりではない。ここからは譜代大名――それも、政争に敗れた家のドラマを追いかけたい。
大久保家は下野国の宇都宮家から分かれた血筋であるという。
この一族は特に兄弟が多く、「大久保党」と呼ばれる集団として代々徳川家に仕え、活躍した。そうした数々の功績に報われる形で、1590年(天正18年)にはかつて北条家の本拠地であった相模国小田原に大久保忠世が4万5千石を与えられ、大名となっている。4年の在任ののち、忠世が病気のためこの世を去ると、彼の息子である忠隣が跡を継ぐことになった。
忠隣は幼少の頃より家康のもとで活躍し、彼の3男である秀忠につけられていた。
父に従って11歳のときに初陣を果たし、その後も多くの戦功をあげた忠隣は家康から厚い信頼を受けるようになっていた。実際、家康の跡継ぎが秀忠に決まったのも、彼が「これからは太平の世ですから、武力だけでなく文治に向いた秀忠様がふさわしいでしょう」といった意味のことを強くいい切って推薦したからだ、といわれているほどである。
忠世の死にあたって大久保家の家督を継いだ時にはすでに42歳になっており、秀忠が第2代将軍になると老中として権勢を振るった。
大久保忠隣はなぜ改易されたのか?
それほどの重臣であったにもかかわらず、1614年(慶長19年)、京都でキリスト教の弾圧にあたっていた忠隣に突然の改易が宣告される。この時、たまたま将棋を指していた彼は少しもあわてず、まるで予感があったかのように、使者に頼んで将棋を最後まで悠然とやり終えたという。
改易の理由は、忠隣の養女を常陸国牛久藩主の山口重政の息子に嫁がせた際、幕府の許可をとらなかったというものだった。
しかしこれはあくまで表向きのもので、実際の容疑は別にあった。ズバリ、「謀反」である。それも、忠隣自身にそのような意図はなく、彼の政敵であった本多正信によって仕掛けられた周到な罠の結果であった。
本多正信の名前は本連載のここまででも繰り返し出てきたが、家康から深く信頼されて外交・内政の両面で活躍した能吏である。
その正信と忠隣の対立については、「関ヶ原の戦いにおいて忠隣の家臣が抜け駆けをして、それを正信が処罰した」「家康の後継者選びの際、正信は秀忠ではなく次男の秀康を推した」「忠隣の嫡男・忠常が病死し、忠隣がショックのあまり政務に手がつかなくなった時、正信が公私混同と批判した」などの数々のエピソードが知られているが、結局のところは幕府内におけるふたりの重臣による勢力争い、と考えていいだろう。
また、忠隣は槍働きで数々の活躍をしてきた武断派で、正信は戦場ではなくその後方で真価を発揮する文治派なので、この性質、活躍場所の違いも両者の争いに拍車をかけたに違いない。実際、豊臣政権においても加藤清正・福島正則ら武断派と石田三成ら文治派の派閥争いが発生し、結果的に家康が暗躍する隙を作って、政権崩壊につながっている。
現代風にたとえるなら、注文をとってくる営業部と、実際に商品を作る製造部が、それぞれ「あいつらは俺たちの苦労がわかっていない」と不満を溜め込んで仲が悪くなるようなものだろうか。
忠隣が庇護して姓を授けた重臣、大久保長安にまつわる疑惑も、彼の足を引っ張ったようだ。
大久保長安は金銀山の開発や各地の民政によって幕府の財政に大きく貢献し、「天下の総代官」と呼ばれたほどの人物だったが、その一方で自身も莫大な私財を有していた。ところがその死後、不正な蓄賎と謀反をたくらんでいたという容疑がいきなり浮上し、遺産はすべて没収されてしまったのである。
長安は家康の子である松平忠輝の付家老で、忠輝は奥州の雄・伊達政宗の娘を妻に迎えていて、長安自身に豊臣系大名との姻戚関係があり、そしてなによりも幕府の重臣である忠隣との関係が深い。
これだけの勢力に長安の財産が加われば、もしかしたら本当に幕府を倒すこともできたかもしれない――少なくともそういう噂が流れて人々の信じる余地があるだけで、黒幕の位置に当てはまってしまう忠隣の立場は危うくなっていく。
トドメになったのは、馬場八左衛門という男が家康に「忠隣、謀反」と訴え出たことであった。
この人物は家康の五男・信吉の家臣だったのが公事(訴訟)に敗れて小田原に預けられていた経緯があり、そこから私怨が生まれたのだとも、あるいは何者かにそそのかされたのだともいうが、真偽はわからない。
しかし、この一件を正信が最大限に利用して家康をそそのかし、忠隣を改易に追い込んだのだ、と考えていいだろう。
その後の忠隣と、小田原藩大久保家の復活
こうして改易された忠隣は、井伊直孝のもとへ身柄を預けられ、近江に蟄居することとなった。
そしてそのまま、幕府中枢に戻ることなくこの世を去った。1628年(寛永5年)のことである。近江へ配流となった直後は、側近を通じて無実であることを訴えていたが、家康の死後は仏門に入り、自ら隠居を望むような行動を見せるようになっていったという。
あるいはライバルである正信の死後、秀忠が忠隣に戻ってくるようにいったが、彼がそれを断ったという説もある。
忠隣の改易は優れて政治的な事件であり、彼自身の罪を発端とするものではない、冤罪であったと思われる。
その背景にあったのは、忠隣と正信の幕府内における主導権をめぐる政治的対立であり、また豊臣家排除を目前にした家康の、幕府を一枚岩にしたいという強い思いだったのではないか。そのため、幕府としても大久保家に対する扱いは同情的だったと見られる。
また、古くからこの一族が徳川家に対して見せてきた忠誠心を評価する向きもあったろう。
そのため、忠隣の孫・忠職は蟄居ののちに大久保家の存続を許されたのだった。忠職は加増を受けながら美濃国加納藩や播磨国明石藩に転封をくり返した。
そして大久保家改易ののちに小田原藩に入っていた阿部家、稲葉家が転封となると、忠職の養子・忠朝の代でついに小田原藩に返り咲いたのだった。これが1686年(貞享3年)のことであった。この後、大久保家は小田原藩に根を下ろし、明治維新までここをおさめることとなる。
ちなみに、「天下のご意見番」として知られる講談や時代劇のヒーロー、大久保彦左衛門は忠隣の叔父にあたる。
彼は正信ら文治派によって日陰に追いやられた忠隣や自らのような武断派の鬱屈を、家康の軍記物語である著作『三河物語』に叩きつけ、これが当時のベストセラーになって現代にまで伝わっている。