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【殿様の左遷栄転物語】藩主の乱心で改易 津山藩森家

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織田に仕えた森家

森蘭丸(乱丸)といえば織田信長のそばに仕えた美少年として名高い。
もともと森家は清和源氏の流れを汲む一族で、うち一流が美濃国に入って守護の土岐家に仕え、森可成の代に信長の家臣となる。長男の長可(次男とも)は「鬼武蔵」と呼ばれるほどの武勇の将であり、その弟の蘭丸は信長のそば近くに仕えた、というわけだ。

しかし蘭丸は信長とともに死に、長可は羽柴秀吉についたものの討ち死にしたので、森家を継いだのは末弟の忠政だった。豊臣政権では美濃国金山に7万石を与えられ、関ヶ原の戦いでは東軍に従った功績で美作一国である18万6千石余を与えられた。津山藩の始まりである。

森忠政にはふたりの息子がいたが、ふたりとも早世していた。そこで、忠政の死後は養子の長継が藩主となる。その長継も隠居すると、長継の長男・忠継がすでに死去していたため、次男の長武が跡を継いだ。
ただ、長武は期限付きの在任、中継ぎピッチャーのような存在だった。忠継の子(つまり、長武の甥)である長成が大きくなってきちんと藩主を務められるようになるまで、という条件で長武は3代藩主の座についたのである。

長武は家臣や、前藩主で隠居の身の長継の干渉を良しとせず、側近による独裁的な政治を行ったが、長成が16歳になると約束どおりに藩主を譲っている。
この時、長武は隠居料の蔵米2万石(米による収入。明確にどこかを所領としてもっているわけではない)を受け取っているのだが、実際のところはやはり不満があったようで、独立大名になるべく工作を行う。長継にこのことを諫められながらも聞き入れなかったようだ。しかし結局のところ、独立する前の1696年(元禄9年)に没してしまう。

長武が長生きしてこの騒ぎがもっと大きくなっていれば、さらなる問題も起きたかもしれないが、まずは運よく危機を回避できた、ということになるだろうか。

お家騒動の火種は消えたのに

一方、無事に跡を継いだ長成は幕府の命令に従い普請に力を入れたが、1697年(元禄10年)に27歳で病没する。
しかしこの時、彼には嗣子となる者がいなかった。そこで長成の叔父にあたる関衆利(忠継・長武らの兄弟)が末期養子とされ、幕府の許可を得て森家を継ぐことになる。

ところが、ここで問題が起きた。相続のために江戸に向かう途中、衆利が発狂してしまったのである。もともと体調の良くなかった衆利に医師が朝鮮人参を大量に加えた薬を処方したところ、いきなり様子がおかしくなった、とされている。
このような状況で家を継げるはずもない。幕府は「当主乱心」を理由に、森家に改易をいい渡す。まったく不運としかいいようがない顛末である。

森家の本家が改易されたことにより、支藩である津山新田藩(長武が別の弟に1万5千石を分け与えて成立)も播磨国の西部に移封となる。当主であった長俊はここに三日月藩を成立させ、明治維新まで存続させた。
また、まだ存命だった2代藩主の長継は、衆利の死後に備中西江原に2万石を幕府から賜り、ここに森家を再興させている。とはいえ、この時点で、もう非常な高齢であったため、旗本になっていた息子の長直が呼び出される形でその跡を継ぎ、彼が後に播磨国赤穂藩に移されて、幕末まで続くことになる。

一難去ってまた一難という具合の森家ではあるが、どうにか生き延びることは許されたのである。

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