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【殿様の左遷栄転物語】返り咲きを期待して決断 柳生宗矩

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将軍家剣術指南役の活躍

柳生といえば時代劇や時代小説などで知られる剣術流派「柳生新陰流」の家である。隻眼の剣客・柳生十兵衛三厳の名前は特に知名度が高いはず。しかし、そんな柳生家も一度、大名の地位を失ったことがあるのをご存じだろうか。

柳生家は菅原道真の末裔を称する大和国の国人であった。柳生宗厳(石舟斎)の代、剣聖と謳われる上泉信綱と出会って新陰流を学び、そこから柳生新陰流を創始して以後、剣の技を磨いていった。
一方、宗厳の子である宗矩は父に推されて徳川家康に仕え、関ヶ原の戦い後に2千石を与えられた。さらに2代将軍・秀忠の兵法師範(剣術の師匠)とされ、大坂の陣では秀忠の本陣を守って活躍した、ともいう。

一説には柳生家は近隣の伊賀の忍者たちと親しく、そこから密偵的な仕事をしたのではないか、ともいう。
実際、宗矩はのちに「惣目付」という役職につけられているが、これは諸大名や旗本の様子をはじめとする天下のさまざまなことを監視し、報告することが役目で、まさに忍者・密偵的な仕事だ。茶道や華道などの各種教養を通じて大名たちの情報を集めたというのも、そのイメージを強めている。

そのようなところから、各種のフィクションでは「裏柳生」なる忍者集団が登場し、宗矩の配下として活躍している。
宗矩は1621年(元和7年)からは3代将軍となる家光の兵法師範も務めた。家光は、親子ほどに離れた年の差も相まって全幅の信頼を寄せていたようである。家光は大の勉強嫌いだったが、仏教や儒教の知識にも通じていた宗矩や、その宗矩と親しくしていた禅僧・沢庵の話はよく聞いたといわれている。

そうした関係が功を奏し、加増を繰り返され、1640年(寛永17年)には1万2千石余を領する大名となっていた。
兵法師範というより、どちらかといえば政治家としての宗矩が評価され、家光に忠義を尽くした結果であったといえる。

宗矩の頭を悩ませ続けた息子たち

このようにして地盤を確立させたかに見えた宗矩にとって頭痛の種だったのが、跡を継ぐべき息子たちの存在であった。
家光の小姓として仕えさせた宗矩の嫡男・三厳は、家光の気に障るようなことをして蟄居させられてしまった。代わって次男の友矩が家光の小姓となり、兄とは打って変わって寵愛されたものの、間もなく死亡。今度は三男の宗冬が仕えることとなったが、まだ若かった。

家を誰に継がせるべきか、また実際に家を継いだ息子は、柳生家を潰さずに次代へ託してくれるか――宗矩はさぞ悩みに悩んだに違いない。
結果、宗矩の息子たちは誰も1万2千石余の所領をすべて継ぐことはなかった。三厳に8千石余、を不冬に4千石、そしていまひとりの息子である義仙に200石を、と分割して所領を譲ることになったのである。

これは宗矩自身が家光から「何か願いはあるか」と尋ねられたとき、「知行を一旦幕府に返上すること、そして改めて3人の息子に分け与えてください」と願い出たためだといわれている。
もしこの話が本当なら、宗矩としては柳生家を大名から旗本にあえて落とすことによって、息子たちが大名という地位をもてあまして家を潰してしまうことを防ごうとしたのかもしれない。そうして家を守っていけば、いつか大名に返り咲くこともあるかもしれない、と。

その後、三厳が子のないままにこの世を去ると、宗冬が家督を継いだ。
宗冬は三男であり、本来なら柳生本家の家督を継げるような立場にはなかったのだが、巡り巡って継承権を与えられることとなったのである。相続の際、以前分与された4千石は幕府に返上しているので、残されたのは三厳時代と同じ8千石余である。

4代将軍・家綱の兵法師範を務めることとなった宗冬は、その穏やかな性格で誰からも好かれたようだ。
剣豪としてはそこまで大きな事績を残したわけではないが、その人柄と兵法指導者としての働きによって、1668年(寛文8年)に加増された。これと三厳から受け継いだ所領を合わせ、1万石を有する大名に返り咲いたのである。まさに宗矩の期待どおりにことが進んだ、といえよう。

以後も将軍家の剣術指南を務めた柳生家は、大和国柳生藩1万石を受け継いで明治維新を迎えた。

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