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【殿様の左遷栄転物語】第3章 廃嫡される跡継ぎ 派閥争いのとばっちり左遷

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移り変わる「跡継ぎ」事情

動乱のうち続いた戦国時代、武家における家督相続の条件は「最初に生まれた者」ではなく、「力がある者」だった。
この場合の力というのは本人の武勇や才覚というだけでなく、後ろ盾になる人物――たいていの場合は母親の実家――の力ということでもあった。正室の子が優先されることも多かったが、これはそもそも「正室は力の強い家や、大事にしたい家から嫁いできている」ことが大きく関わっていると考えていいだろう。

家の力が弱くなれば、周辺の勢力はもちろんのこと、傘下においている国人や家臣団すらも、謀反や裏切りといった行為に走りかねない。強い力で家を取りまとめる必要があったわけで、そのためには先に生まれたこと云々よりもまず「強みを持っているかどうか」が大事になったわけだ。

ちなみに、他家へ養子に出ている場合は、家督継承の順番から外れるのが普通だった。
徳川家康の跡を継いだのは三男の秀忠だが、これは長男の信康がその時点ですでに死んでおり、また次男の秀康が豊臣家、さらに結城家に養子へ出ていて、徳川の家督を継ぐ権利を失っていたからと考えられる。

こういう価値観が当たり前の時代だから、当主が死ねばしばしば当たり前のように兄弟が家督を争って戦うことになった。織田信長は弟の信行(信勝)と二度にわたって争った上に死に追い込んでいるし、長尾景虎(上杉謙信)は家督を継いでいた兄・晴景と対立し、最終的には自分が兄の後継者になるという形でその家督を奪っている。
武田信玄が父・信虎との関係が悪化して家督を弟に譲られそうになったので父を追放した、あるいは斎藤道三が息子の義龍に家督を譲り、しかし関係が悪化したので家督を取り上げて別の息子に与えようとしたところで攻められ、死んでしまったのもこのような事情の延長線上にあるといえよう。

しかし、時代が変われば常識も変わるもの。泰平の江戸時代においてはこのような争いを防ぐため、血筋や長幼の順こそが重視されるようになった。これがまた、幕末の動乱期になると事情が変わる。
たとえば13代将軍の跡継ぎをめぐって2つの勢力が争った「安政将軍継嗣問題」においては、血筋に優れる徳川慶福(徳川家茂)を推す者たちと、才覚を高く評価されていた一橋慶喜(徳川慶喜)を推す者たちが激しく争った。価値観は時代の趨勢によっていくらでも変わるもの、という一例になるかと思う。

豊臣との縁切りのための廃嫡

とはいえ、まだまだ動乱の余波が収まらぬ江戸時代初期には少なくない数の争いがあり、本来嫡男でありながら廃嫡されてしまった者がいた。
特に本連載で注目するのは、「天下人が豊臣から徳川に移り変わったため、豊臣とかかわりがあったり、他大名とかかわりがあったりする嫡子が廃されてしまう」ケースである。

先述したように、幕府は江戸時代初期に数多くの大名たちを改易してその権威を示した。
もともと徳川家と深いかかわりのある親藩・譜代大名はともかく、もともとは徳川家と同格の大名であり、また徳川の天下になる前には豊臣家に臣従していた外様大名たちとしては、お取り潰しを免れるために「豊臣家の味方をするなどの形で謀反をする気はありませんよ」とアピールしていかなければならなかった。

その視点で考えれば、たとえば秀吉と親しく付き合った過去のある人間を跡継ぎにしたりすると幕府に警戒されるのでは、と思えてくる。また、家康の娘を妻に迎えて、彼女が産んだ子を跡継ぎにすれば徳川との縁が深まって取り潰される危険も減るというものだが――そうなれば当然、本来は跡を継ぐはずだった若者がひとり、放り出されてしまうことになる。
はじき出される者の視点で考えればまったく哀れだが、家の生き残りという視点で見ればいたし方のないことだった、といえよう。「前政権との関係がある」というのはそれだけで罪であり、「現政権との関係を深められる」ことが歓迎すべきことなのである。

これを現代風にたとえるなら、「出資者や親会社、あるいは会長といった上位者が交代したことによって派閥間パワーバランスが崩れ、それまでのエリートがいきなり左遷されたようなもの」といったところだろうか。
コネクション、つながりというものは必ずしもいい方向にばかり働くとは限らないのである。

用済みになった養子の末路は

そして、もうひとつのパターンは「家を断絶させたくないために養子を取ったけれども、実子が生まれたので用済みになった養子が排除される」というケースである。
こちらはある意味で由緒正しい廃嫡事件といえる――そもそも、室町幕府が衰退して戦国時代が始まる大きなきっかけのひとつと見られる「応仁の乱」が、似たようなトラブルから始まっているくらいだ。室町幕府将軍・足利義政が実子を持たないために弟の義視に跡を譲ろうとしたが、その後で実子・義尚が生まれてしまったため、この両者を擁立する2つの勢力が争った、というのが応仁の乱の大まかな概要である。

大名本人としては実子が生まれれば実子を優先したくなるだろうが、養子は養子でもともと由緒正しい生まれだったり地元に基盤があったりし、また本人としても「当主になるものだ」と信じているのだから、そうそう簡単に後へは引けなくなる。
力関係の綱引きや本人の判断によって問題なく終わることもあるが、ひどい場合には内乱に突入することもある――それが幕府の内乱なら、日本全国を巻き込む争いになる、というわけだ。

以上を前提に、次回から具体的なケースを見ていこう。

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