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【殿様の左遷栄転物語】伊達政宗の長男が設立 宇和島藩伊達家

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豊臣と縁が深かった伊達秀宗

伊達といえば「奥州の独眼龍」こと伊達政宗だが、彼の後継者についてはひと悶着あったのをご存じだろうか。
天下人交代による廃嫡の代表的なケースが、この伊達家で起きたのである。

伊達家は藤原家の末裔で、鎌倉時代より奥州に定着する名門武家である。
戦国時代にはしばらく内乱が続いて停滞したが、政宗の登場で一気に勢力を伸ばした。東北地方の覇者になり上がったところで豊臣政権による圧迫を受けたが、恭順して勢力を維持し、その後の関ヶ原の戦いに乗じてさらに所領を増やした。

その政宗の長男が、のちの伊予国字和島藩初代藩主の伊達秀宗(だて ひでむね)である。彼は政宗の側室の子ではあったが、幼い頃に豊臣秀吉の猶子(養子とは異なり契約上の子)となり、元服するにあたって秀吉と政宗から一字ずつ受けている。
わずか6歳の頃に侍従・従五位下遠江守という官職を与えられているが、これはなんと父・政宗とほぼ同格の扱いである。秀吉としては自分の子・秀頼つきの家来として彼を育てたかったようで、そのために幼少期から厚遇したのだろう。

関ヶ原の戦いにおいては父の政宗が東軍についたため、西軍の石田三成に人質としてとらわれた。
戦いののち、今度は徳川家の人質として江戸で暮らし、大坂冬の陣では政宗とともに出陣して戦功をあげ、伊予国宇和島郡に10万石を与えられて、ここに宇和島藩を設立することになった――そう、秀宗は伊達本家を継承できなかったのである。

その原因は、すでに述べたような豊臣家との深い関係があったのでは、と考えられている。
伊達家は東北の大大名であり、幕府から警戒される存在だ。その当主が豊臣家ゆかりの人物では、余計ににらまれるだけだ。かくして、政宗は徳川家康に配慮して、秀吉の猶子である秀宗ではなく、次男で正室の子である忠宗に本家である仙台藩を継がせた、というわけである。
もちろん、秀宗が側室の子で立場が弱かった、というのもこの判断に加わっただろう。

財政問題に苦しんだ宇和島藩

宇和島藩主となった秀宗は、家康に命じられて大坂夏の陣には出撃せず、藩政に力を注いだ。
しかし藩政には、財政難という大きな問題が最初から存在していた。これは、秀宗が宇和島藩を立ち上げる際に父・政宗から6万両もの借金をしていたからである。さらに幕府からは大坂城普請を命じられ、これに関する雇用、道具の調達などで、宇和島藩の出費はさらにかさんだ。

ここで強硬な態度に出たのが、藩の財政責任者である山家清兵衛公頼(やんべ せいべえ きんより)である。清兵衛は藩士の給与を半分に減じることで財政難を補おうとしたのだった。
これにはもちろん不満の声を上げる藩士もおり、1620年(元和6年)にはついに清兵衛が一家もろとも皆殺しの目にあうという事件が起きる。

これは清兵衛の政敵である桜田玄蕃が首謀者とされる。両者は政宗からの借金の返済や大坂城普請の際の金銭調達などをめぐり、ことごとく対立していた。
最終的には玄蕃の清兵衛に対する中傷を信じた秀宗が、清兵衛襲撃の命を下したとされている。この事件が原因で秀宗は政宗に勘当され、宇和島藩も取り上げられるところだった。だが2年後に勘当は解かれ、秀宗は以後も宇和島藩主を務めた。

また、宇和島藩からは毎年3万石分に相当する年貢が借金の返済として仙台藩へ送られていたが、これは1636年(寛永13年)に政宗の死を受けて終了し、さらに2年後に幕府から領知判物(領地の所有証明書のようなもの)を与えられ、宇和島藩は完全に独立大名となった。

「本家・末家」論争に幕府が介入する

――とはいえ、実際には両者の関係は以後も深く、たとえば3代目の字和島藩主は仙台藩からの養子であるなど、密接につながってきた。
その中で仙台藩側の認識は「宇和島藩は仙台藩の支藩」だったのだが、これに反発したのは5代目藩主の村候(むらとき)である。彼は1748年(寛延元年)に「同じ苗字の別家ではあるが、末家ではない!」と主張したのである。この時、村候は仙台藩主から与えられた「村」の字を捨てて改名をし、また仙台藩に対する儀礼上の扱いを一段下げたというから相当の覚悟があったのだろう。

これに対しては仙台藩側も強硬な態度を示し、状況は泥沼化の様相を見せ始めた。そこで、問題を持ち込まれた時の老中・堀田正亮(ほった まさすけ)は「本家・末家」から上下関係のニュアンスを弱めた「家本・家別れ」にしてはどうかと提案し、これを仙台藩がせめて上下関係をもう少し強調した「家本・家分れ」にしてくれ(ただし、うちとしてはあくまで本家・末家と考える!)と提案、どうにか収まった。

結果として両者は和解したのだが、その後も少なからず確執は残ったようだ。
江戸時代の武士たちは大小の差はあれど家格にこだわるものであり、政宗・秀宗時代の複雑な事情がある以上、このような問題が起きたのも仕方のないことなのだろう。

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