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【殿様の左遷栄転物語】無念の長府藩主 毛利秀元

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輝元の跡を継ぐはずだった男

長門国長府藩の毛利家は長州藩(長門国萩藩)毛利家の支藩にあたる。長府藩の初代藩主である毛利秀元は、本来は本家の当主となるはずだったのに、それがかなわなかった男である。

秀元は毛利元就の四男である元清の子で、毛利本家の当主である輝元のはとこにあたる。
この輝元には実子がなかったために、1592年(天正20年)、13歳のときに秀元が養子となり、後継者候補となっていた。実際、養父の代わりに「文禄の役」で総大将を務めるなどの活躍もしている。

またちょうどこのころ、秀元が豊臣秀吉の命を救った、などという逸話もある。秀吉の乗っていた船が岩にぶつかって沈んでしまったのだが、そこへ小船に乗った若者が現れて秀吉らを救った。
秀吉はこれにいたく感動し、若者に自らの名を一字与えて「秀元」と名乗らせ、また輝元に命じて彼を養子とさせた。さらに周防・長門の二ヵ国はあくまで秀元の分であり、誰も奪ってはならないとまで命じた。だから関ヶ原の戦いの戦後処理においても、徳川家康はこれを奪えなかったのである――というのだ。

しかし、実際には1595年(文禄4年)輝元と側室の間に男子が誕生して、やがて秀元はその子・秀就に後継者の座を譲ることとなってしまった。
豊臣政権が秀吉の死で揺れつつも健在だった頃なので、この逸話は面白いが信憑性は怪しい、というべきだろう(もし本当なら、豊臣政権を慮って、秀元のままにしたのではないか?)。

当主を補佐するも、対立を招く

翌年、輝元が関ヶ原の戦いで西軍について敗れたため、毛利家は防長二国に減封されたのはすでに紹介したとおり。
この際、長門国のうち3万6千石余を分与された秀元は、ここに長府藩を設立。他にも一族に領地が分け与えられ、長府藩以外に徳山藩、清末藩、岩国領が成立し、長州藩の支藩とされた。

秀元は長府藩主として、輝元の跡を継いだ秀就の補佐を務めることになる。これは輝元からの直々の依頼でもあり、一時期は彼の嗣子であったというその立場から、秀元が萩藩の藩政の立て直しを強硬に進めることを可能とした。
秀元の指示のもとに検地や給地替えが行われ、長州藩の、そして毛利一族の政治の中心的存在となっていく。

しかし、やがて藩体制が定まっていくと、支藩の秀元が本家に干渉することを厭う動きがあちこちに見えるようになってくる。
家臣の中には、秀元の強硬な態度に不満を覚える者もいたようだ。もしかしたら、豊臣政権との深いつながりを幕府に目をつけられるのでは、と気にする者たちもいたかもしれない。

そして秀元は秀就とも対立するようになっていった。直接的なきっかけとしては秀元が自分の息子と秀就の娘を結婚させたいと希望したのだが断られた件が挙げられるが、実際には反・秀元の家臣団が秀就をそそのかした部分のほうが大きいだろう。
そのために秀元は、1631年(寛永8年)に秀就補佐の任務を辞任したいと老中に書状を送った。また同じく支藩である徳山藩とともに、長州藩からの自立の動きを見せ始めたが、幕府の裁定によってこれは失敗に終わってしまった。

秀元が正式に補佐の任を辞したのは1636年(寛永13年)、江戸城の普請役をめぐって、本家との間にトラブルが起きた時のことだ。この時、秀就は秀元に普請役の助役を命じたのだが、秀元は輝元の配慮によってそれは免除されていると命令を拒否。この時も幕府が間に入り、結果的に秀元が秀就の補佐役を辞退することを条件として、普請役の助役を免除するという形でおさまった。その以前から辞任の意思を見せていたので、秀元にとっては一石二鳥だったといえるかもしれない。

こうして秀就補佐の立場を退いた秀元は、以後、長府藩の藩政に専念して力を注ぐようになる。その甲斐あって、秀元は人々に名君と呼ばれるほどの存在になったのである。

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