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【殿様の左遷栄転物語】一代の英雄死して山形藩は……最上義光

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伊達や上杉を向こうに回して大暴れ

出羽国山形藩の最上家でも、幕府に接近した後継選びが行われた形跡がある。しかし、この家の場合、それはむしろ藩の崩壊を進める一因となってしまったようだ。

最上家は奥州探題・斯波家の一流とされ、名門武家といっていいだろう。
斯波兼頼が羽州探題として出羽国の最上郡に入り、最上家を称したのが始まりなのだが、勢力を拡大するうちに一族内部で対立が起き、次第に衰退。さらに伊達家との争いに敗れ、一時は実質的にその支配下に入ってしまった。

この苦境に現れたのが最上義光である。彼は自分の弟をはじめとする最上一族や国人衆といったライバルを次々と打ち倒して最上家を統一し、また自らの甥にあたる伊達政宗とも激しく戦って、東北の有力大名のひとりに成り上がった。
関ヶ原の戦いでは東軍に味方し、西軍側の上杉家による攻撃を耐え抜いた。この時、最上家の支城のひとつ、長谷堂城をめぐって争われた戦いは、上杉家の重鎮である直江兼続の活躍もあって、「東国の関ヶ原」などと呼ばれたりもする。

この功績によって、義光は57万石を有する大大名となる。
だが、そもそも彼の登場まで長く内乱を続けてきたことからもわかるように、最上家はとても一枚岩とはいえない状況であった。義光は一代の英雄ではあったが、「小規模勢力の寄せ集め」という戦国時代的大名家である最上家を、システムによって統制する近世大名に昇華させることはできなかった。これが後の悲劇につながることになる。

義光はなぜ次男を選んだのか

本来、義光の跡継ぎは長男の義康であった。だが、彼の周囲には反・徳川的な思想を持つ家臣団が集まり、義光を隠居させようと画策していた。
義康自身が30歳になっても家督を継げないので「いつになったら隠居してくれるのか」と不満を持っていた、などという話まで義光に伝わってきた。

一方、次男の家親は幼い頃から家康に仕えていたという経歴もあり、名前も一字貰い受けている親・徳川派である。
幕府との関係を考えれば、どちらをとるべきかは明白だ――すくなくとも、義光はそう考えた、と見られる。一説には、家康自身がそのように示唆した、ともいう。

1603年(慶長8年)、義康は義光の命で高野山に登った。その途中、義光の家臣である土肥半左衛門らが彼を鉄砲で狙撃し、致命傷を負った義康は自害して果てた、と伝わる。
果たしてこれが義光の意思なのか、それとも家臣団の暴走なのかはわからない。

このような経緯を経て1614年(慶長19年)に義光が没し、次男の家親が跡を継ぐと、いよいよ英雄にしてカリスマである義光を失った最上家のタガが外れ、内紛の泥沼へ突入していくことになる。
家督継承から3年後、家親は突然の変死を遂げた。一説に、これは毒殺あるいは暗殺であるといい、猿楽を見ながらいきなり死んだので人々はみな怪しんだ、という。幕府も不審がったようだが、この時点では処罰はなかった。

内紛ついにおさまらず

家親の子の義俊がわずか12歳で跡を継ぐと、いよいよ問題が加速する。
最上家の主導権をめぐって2つの派閥――義俊の藩主としての主導権を支持する一派と、前藩主・家親の弟である義忠を支持し、藩主の交代を訴える一派が争ったのである。

57万石もの大藩に、そんなドタバタをされてはたまらない。事態を憂慮した幕府が、直接義俊の監督をするという措置をとったものの、両者の対立は激化するばかりだった。
やがて義俊の一派に属する松根光広という重臣が、「家親の死は義忠派の者による毒殺である」と幕府へ訴訟を起こしたため、両者には話し合いの場が設けられた。これと並行して幕府から派遣された奉行たちによる両派の説得も行われたのだが、聞く耳をもたれなかったようだ。

結局のところ、毒殺説については証拠がないとして追及されることはなかった。
しかし、この裁定に立ち会った老中・酒井忠世は、国政不取り締まりとしていったん義俊の所領を幕府が預かり、彼が成人したのちに返却するとした。そしてそれには、家臣たちがひとつにまとまるという条件がつけられていた。
本連載で見てきた数々の改易劇を見れば、まったくもって寛容といわざるを得ない判決である。にもかかわらず、藩主の交代を訴えていたほうの一派は「いつまた松根光広らに訴訟を起こされるかわからない」として、この裁定を拒否したのである。

本人たちにはそれぞれに事情があろうとも、こんな「子供の喧嘩」をされては、幕府の堪忍袋の緒も限界である。結果、義俊は改易され、近江・三河に1万石を与えられた。義俊は近江国で大森藩を成立させ、子の義智がそのうちの5千石を継いだ。当時の義智はまだ2歳だったため、成人したのちに残りの5千石を受け取るという約束だった。しかしその約束は果たされず、以降最上家は大名に準ずる官位を持つ高家とされた。
また、義俊の次男・義長の家系は旗本となり、代々江戸に居住して将軍のそばに仕えている。

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