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【殿様の左遷栄転物語】3章まとめ 後継者問題の難しさ

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「乱心」者ゆえに廃嫡された男たち 

最後に、「乱心」から廃嫡されたふたりの跡継ぎの話を紹介しよう。
このふたりも養子として入りながら実子が生まれたことで立場が悪くなって排除された者たちであり、「乱心」というのも果たしてどこまで本当なのか怪しかったりする。

一代で天下人まで成り上がった豊臣秀吉は長く実子をもつことができず、ようやく淀殿との間に生まれた鶴松は1591年(天正19年)に夭折してしまった。
そこで甥である秀次を養子とし、関白の座にまでつけて後継者に選んだ。ところが2年後、淀殿が第二子として秀頼を生んだため、両者の関係は非常に複雑になってしまった。

実子を後継者にしたい秀吉と、自らの地位を守りたい秀次の対立が激化し、最終的に、1595年(文禄4年)、謀反の罪に問われた秀次は切腹へと追い込まれる。これに際して、秀次が乱心してさまざまな悪事・凶行に手を染めたことがしばしば語られるが、精神的に追い詰められたであろうこと、また正当性を確保するために豊臣政権が話を創作した可能性を考慮するべきであろう。

また、第2章で紹介した福島正則も、長く実子がいなかったので姉の子の正之を養子にしている。
彼の妻として徳川家康の異母兄弟にあたる松平康元の娘で家康の養女にもなった満天姫を迎えているから、この時点では正之を後継者にするつもりだったのは間違いない。

ところが、やはりこちらも実子の忠勝が生まれてしまったので、実の子供を後継者にしたい養父と追い詰められていく養子の関係は悪化していった。そして、正之は荒れた。「道行く人や周囲の家にわけもなく鉄砲を撃った」「義父である正則の葬儀の真似事を行った」というから尋常ではない。
これに対し、正則は彼を殺し、改めて忠勝を嫡子とすることで応えたのである。

「後継者を誰にする?」

戦国時代や江戸時代の大名家であっても、あるいは現代の企業であっても、「後継者を誰にするか」というのは人事の最重要ポイントである。
単純に考えれば一番優秀な人間を選べばいいような気がするが、現代のこの階級のない社会でさえ、実際のところ本人の能力よりもそれ以外の要因のほうがしばしば重要になるのだから、封建社会である江戸時代ならば何をかいわんや、である。

血筋や長幼の序、そして後ろ盾になる内外勢力とのかかわりが、誰を後継者にするかに密接に絡んでくる。そして、後継者を決めた後に状況が変われば、廃嫡して新たな後継者を立てる可能性は十分にある――時には、血が流れることもある。
そうした人事における非情な一面が、本章で紹介したエピソードでは随所に見られたと思うのだが、いかがだろうか。
企業で栄達を望むのであれば、このような面にも、きちんと目を向けていなければならない。

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