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【殿様の左遷栄転物語】北ノ庄藩越前松平家と高田藩松平家の付家老たち

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越前松平の騒動は付家老のせい?

ここからは御三家付家老以外の、親藩大名付きの付家老について簡単に紹介しよう。
徳川忠長の駿府藩徳川家についてはすでに紹介したとおりなので、北ノ庄藩越前松平家と高田藩松平家の付家老について紹介する。

まずは北ノ庄藩越前松平家から。
家康の次男でありながら、豊臣家、結城家に養子に出ていたこともあって、徳川の家督を継承しなかった秀康には本多富正(ほんだ とみまさ、3万9千石、府中城主)が付けられ、秀康の子・忠直の代になってさらに本多成重(ほんだ なりしげ、4万石、丸岡城主)が付けられた。

このふたりは本多一族の定通流出身で、成重の父・本多重次(ほんだ しげつぐ)は「鬼作左(おにさくざ)」の通称や「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」の手紙で知られている。また、その重次の甥が富正である。彼はかつて、秀康とともに豊臣秀吉のもとへ送られ、人質生活を過ごしたことがある人物で、秀康とは古い付き合いの間柄だった。

さて忠直の代、越前松平家はたびたび混乱状態に陥った。そして、その背景には幕府の命を受けた付家老の策動があったのでは? という見方がある。
1612年(慶長17年)には筆頭家老である本多富正とこの時の次席家老であった今村盛次(いまむら もりつぐ)の対立が過熱し、ついに武力を用いた抗争にまで発展した。この争い(久世騒動)は家康の裁決によって今村派が所領をすべて召し上げられ、本多派の勝利に終わった。

この久世騒動がそもそも怪しいのだ、という。
今村派は秀康時代に雇われた外様家臣団で、本多派はもちろん譜代の武士たち。徳川家の命で外様の家臣たちが一掃され、代わって入ってきたのが成重たちだから、もちろん彼ら新参者たちも譜代だ。
つまりこれは、家康の命を受けた富正が事件を起こし、幕府がそれにエコヒイキの裁決を下して今村たちを一掃することで、藩内部の勢力を譜代側有利=幕府がコントロールしやすいようにするのが目的の、マッチポンプ的な事件だったのではないか、というわけだ。

また、忠直は関ヶ原の戦いにおいて功績をあげたにもかかわらず評価されなかったことをきっかけとして異常な振る舞い、幕府に対する不敬・不遜の振る舞いが目立つようになったとされる。
これに対して成重が諫めたものの聞かず、むしろ成重を攻撃しようとする始末。最終的にこれらの事件が問題になって、忠直は改易、豊後国へ配流されてしまう。

この顛末もまた少なからず怪しい。特に、改易の直接のきっかけとされる事件として、「忠直は秀康時代以来の重臣の未亡人に惚れて側室としようとしたが、彼女を手に入れられなかったので、腹いせにその一族を攻め滅ぼしてしまったのだ」というものがある。
これが本当なら実にひどい話だが、実のところはその未亡人を側室にという話を持ち出したのはそもそも忠直の家臣のひとりで、しかも一族を攻め滅ぼしたのは富正だったらしいのである。
こう見ると、別に忠直の罪ではないような気がするのは、私だけではあるまい。

その後の付家老たち

その後、忠直の弟・忠昌が越後国高田藩から北ノ庄藩に入り、富正は引き続き付家老としてこれに従った。のちに2万石となったものの、幕末まで付家老の職を世襲している。

ちなみに、この忠昌には高田藩時代に糸魚川藩主・稲葉正成(いなば まさなり、家光の乳母・春日局の元夫で、小早川秀秋の家老を務めたことのある人物)が家老としてついていて、彼もまた付家老のひとりといえるだろう。
ところが正成は忠昌の北ノ庄行きに従わなかった。そのため、彼が付家老だったのは5年ほどのことである。のち、正成は再び大名として取り立てられ、稲葉家は老中なども輩出しつつ何度か転封を繰り返し、淀藩に定着して明治維新を迎えた。

一方、成重は譜代大名として取り立てられ、加増もあって4万6千石余の丸岡藩主となった。
ところが4代目の重益(しげます)は仏教と酒色に夢中になるあまり藩政をおろそかにし、結果として後継者問題をめぐっての藩内抗争を起こさせてしまったため、領地没収の憂き目にあった。しかし、お家断絶にはならず、2千石の旗本として存続している。

幕府の思惑と付家老の役割

越前松平家の付家老を務めた2つの本多家のその後について、皆さんはどう感じられただろうか。
これまでの流れから違和感がある、と思わなかっただろうか。前述のように、自殺した徳川忠長付きの付家老たちは過酷な罰を下されたのに、富正らはまったくといっていいほどこの件で罰を下されず、そのまま付家老として残ったり、大名となったりしているのである。付家老の役目は「監督」なのだから、忠直の行状を止められなかった件について、重い罰が下ってしかるべきではないのだろうか?

にもかかわらずのこの結果なのだから、つまり「越前松平家の付家老たちはきちんと役目を果たしたのだ」という説をとるのが妥当だろう。
つまり、幕府としては秀康以来の血筋を持つこの家に対してダメージを与え、格付けをしておきたかった――将軍家のほうが圧倒的に上なのだ、と示したかった。そこで付家老たちに命じて事件を起こさせ、処罰した、と考えるのが自然ではないだろうか。

そう考えるといろいろ納得はできるのだが、さて秀康と若い頃から一緒に過ごしてきた富正としては、どんな思いであったのだろうか。あくまで本家である将軍家に忠誠を誓って粛々と陰謀を進めたのか、それとも内心に忸怩たる思いがあったのか。
「越前松平家のためにはこのほうがよい」と思っていた、という可能性もある。もちろん、この陰謀が実在したのかどうかということも含めて、すべては歴史の闇の向こう側のことである。

松平忠輝の付家老の場合

家康の六男で、越後の高田に60万石を与えられながら数々の諸行――殺人など凶暴な乱行や大坂の陣への出陣が遅れたことなど――を理由に改易されてしまった松平忠輝にも、ふたりの付家老がついていた。
ひとりは家康の下で江戸時代初期の制度整備に活躍した大久保長安で、ただ忠輝の付家老というのに留まらない幅広い活躍を見せたが、忠輝改易前に病没している。
もうひとりは松平重勝(まつだいら しげかつ、2万石、三条城主)で、こちらは忠輝改易後に譜代大名に取り立てられ、この家系が後に豊後国杵築藩主となって幕末まで続いている。

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