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【殿様の左遷栄転物語】柳川一件

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対馬藩宗家と柳川家

付家老ではないが藩からの独立を画策した家老のケースを紹介しよう。
通称「柳川一件」とされるこの事件は、対馬藩宗家の家老で、対馬という島の「外」に所領を持っていた柳川家の独立画策が、外交問題にさえ発展するような大問題となったものであり、なかなかに興味深い。

柳川家がどこを発祥とするかはハッキリしない。対馬の領主である宗家に仕えるようになり、豊臣秀吉が九州侵攻を行い、宗家もこれに臣従する中で、豊臣政権との交渉などで功があり、柳川調信(やながわ しげのぶ)の存在感が増していったようだ。
その後も調信は、秀吉の朝鮮侵攻に先駆けての李氏朝鮮との交渉、関ヶ原の戦いにおいて西軍についた宗家の立場を家康に対して釈明したこと、また朝鮮との修好など、大いに活躍している。これらを受ける形で、宗家が肥前に所有していた所領のうち1000石が幕府の指示によって実質的に柳川家に与えられることになった。これが後の事件の遠因になるわけだ。

藩内部の争いが国際問題に!

調信の2代後、柳川調興(やながわ しげおき)の代になって、事件は起きる。
きっかけは、宗家と柳川家の関係が悪化していったことであるようだ。時の宗家当主である義成(よしなり)は当主になるまで対馬に行かずに駿府や江戸で暮らし、家康・秀忠の側近く仕えた「都会生まれのエリート」的な人物であり、幕府とのつながりを生かして独自の政策を推し進めた。
こうなると、対馬藩において大きな勢力を誇っていた柳川家との確執が生まれるのは当たり前だ。

両者の対立は先述の田代領の帰属を焦点にしつつ、激化していく。
どうもこの時点で、調興としては対馬藩から独立し、旗本として幕府の直臣になることを狙っていたらしい。もちろん、義成としてはそんなことを認めるわけにはいかない。
幾度か争った末、ついに1631年(寛永8年)、両者は幕府に訴えて出るという強硬策に出た。

それでもこの時点では幕府にとって問題はそれほど深刻ではなかったが、2年後に調興が持ち出した主張が大問題になった。
なんと、「宗家は幕府から朝鮮への書類を偽造し、偽りの使者を送っている」と暴露したのである。この暴露については当時の日本と朝鮮の微妙な外交関係が背景にあり、また柳川家自体が深くかかわっていたことから、捨て身の作戦的なところが多分にあったのだろう。
これによって、事態は藩内部の争いから幕府全体の、いや朝鮮もかかわる国際的な問題になってしまった。

調興の読み間違い?

幕府としてはなんとしてもこの一件を解決しなければいけない。
時の将軍・家光は江戸城内に柳川・宗の両者を召喚して対決させ、その結果を受けて裁定を下した――国書偽造の一件は柳川家の暴走によるものであり、宗家に罪はない、としたのである。調興は弘前藩預かりとなってしまい、独立の夢は破れたのである。

大きな力を持ち、かつ独自の拠点まで(それも、本拠地から海を隔てた場所に!)有した部下と、本拠地との縁が薄く、都会的な価値観を備えた上司。両者が並び立った時、衝突するのは自明の理といえる。
このような衝突は古今東西どんな組織でも発生しうるものであり、現代に生きる私たちとしても他人事ではない。部下の力を削ぎすぎれば組織運営に問題が出るし、強くなりすぎて監視が行き届かなければ下剋上されかねない。人事の難しいところだ。

このケースにおいて上司に軍配があがったのは、もともと義成が幕閣との縁が深かったこと、そしてあまりにも問題が大きくなりすぎたため、「大名の一部下の暴走」とすることでなるべく幕府との関係性を減らそうという意図があったのではないか。
その意味で、暴露戦術に出た柳川家は「外交文書偽造」という問題に対する危機感が足りなかった、といえるかもしれない。
捨て身の戦術自体が悪いというわけではないが、大きな博打に出るならその前に結果をきちんと予測してからにしたいものである。

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