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【殿様の左遷栄転物語】「正徳の治」の崩壊

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家宣の死、幼い将軍家継の登場

家宣政権は綱吉政権から一新したものとして推し進められたが、前述のとおり、その期間は短かった。将軍就任から3年、家宣は51歳で病によりこの世を去ってしまったのである。

家宣の跡を継ぐことになったのは、彼の息子の家継だった。しかし当時の家継はまだ3歳というあまりに幼い年齢であり、間部詮房と白石が補佐することになるのは自然の流れといえた。
いや、補佐というよりはむしろ代行していたといったほうが正しいだろう。まだ3歳の家継が幕政のことなど判断できるはずもなく、白石が策を立てて詮房がそれを執行する、というのが実情であった。将軍の代弁者でありアドバイザーであったふたりが、文字どおり「将軍に代わって」幕政を取り仕切ることになったわけである。

これによって、綱吉の頃から続いていた将軍専制政治は崩れることになり、薄れてしまった将軍の権威を回復することがふたりの課題となった。これを解決するため、彼らは天皇・朝廷との協調を視野に入れ、家継の正室に皇女・八十宮を迎え入れることにした。
さらに儀式や典礼を重視することで、身分の格差というものを強調したのである。

家継の死、政権の交代

しかし1716年(正徳6年)、八十宮(やその みや)との婚礼も果たさないままに家継は急逝してしまった。
わずか8歳という短い命だった。跡を継いだのは初の御三家出身将軍となる紀伊藩主・徳川吉宗であり、彼の将軍就任からまもなく、詮房と白石は幕政から追われることになってしまった。もともと家格による裏づけがない人物が、将軍による信任をバックボーンに幕閣の中枢にいたわけで、それを失えば追われるしかないのは、柳沢吉保のケースとまったく同様である。

詮房はその後、越後国村上藩に移され、3年後に死去。息子の代になってさらに越前国鯖江藩に移され、石高は変わらず5万石だったものの家格は「城主」から「無城」へ落ち、これにともなって収入も大きく減ったとされる。
将軍の寵愛を失ったことからの転落であるわけだが、それでも間部家は明治維新まで続くことになった。また、幕末期の藩主・間部詮勝(まなべ あきかつ)は老中に二度就任し、幕政に少なからず関与している。

白石は本丸寄合からは外れたが平寄合としては残り、1000石の禄と旗本としての身分も取り上げられなかった。
やがて隠棲生活に入り、学者・詩人としての活動に集中することになる。この時期も含め、白石は数々の著作を残しており、自伝である『折たく柴の記』、各藩の記録である『藩翰譜』、イタリア人宣教師から聞き取った内容を元に書いた『西洋紀聞』『采覧異言』などは特にその代表的な存在として知られている。

ちなみにまったくの余談だが、隠棲した頃の白石と手紙によって交流し、彼に刺激を与えたと思われる人物に水戸藩士の安積澹泊(あさか たんぱく)という人物がいる。彼は水戸光圀とつながりが深く、通称は覚兵衛。――そう、あの『水戸黄門』の登場人物のひとり、「格さん」こと渥美格之進(あつみ かくのしん)のモデルなのである。

さて、話を戻そう。
このように、ふたりが「陪臣からの出世人」として強い非難をうけながら、幕閣の中枢を外れてなおある程度の身分・地位を失わずに済んだのは、吉宗の配慮があったと考えられる。詮房は吉宗の将軍就任を支持したし、白石は吉宗にもその才覚を評価され、時に意見を聞かれることもあったからだ(白石側はどうも吉宗が嫌いだったようで、これに反白石派の老中による嫌がらせなども絡んで、あまりきちんとした対応はしていないらしいのだが)。

また、吉宗政権においても、白石が金銀の国外流出を防ぐために献策した「正徳新令(海舶互市新例)」など一部の施策は継続されることになったのである。ここに、吉宗という将軍の度量の大きさを見ることができる。

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