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【殿様の左遷栄転物語】強運の男 徳川吉宗の時代

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吉宗の幸運

テレビドラマ「暴れん坊将軍」でもおなじみの8代将軍・徳川吉宗は徳川将軍家の直系ではなく、紀伊徳川家の生まれである。
そのため、本来ならば将軍になるはずがなかったのに、家継の夭折が彼にチャンスを与えたわけだが――実は、吉宗将軍就任までにはそのほかにも度重なる幸運があった。
本連載のテーマである「人事」にもつながるところがあるので、紹介しよう。

吉宗は紀伊藩主である徳川光貞(とくがわ みつさだ)の子ではあるが、庶子であり、しかも母の身分が低かった。
城の湯番をしていて見初められたというから、おそらくは下女であったろう。長じては体つきも大きくて才覚に優れ、末子であることを父が惜しんだとされる。
そんな彼が、とりあえず3万石の大名になれたのは、綱吉が江戸の藩邸を訪れた際、父と兄が謁見している間、隣の部屋で待機していた彼を綱吉が呼んで、同じ立場で謁見させたことがきっかけであったという。これがまず第一の運である(ただ、この逸話は作り話であるともいわれる)。

第二の運は、紀伊藩主になれたことだった。父の跡を継いだふたりの兄が、相次いで病に倒れてしまったのである。四人兄弟のうち3人が倒れては(3男はもっと早く亡くなっている)、いかに生まれが卑しくても、ほかに選択肢はなかったのである。
こうして紀伊藩主となった吉宗は藩政改革を断行し、名君としての名を高めていく。

そして第三の運が家継の死であった。しかも、本来なら最も有力になるのは御三家の中でも家格の高い尾張徳川家の人間であるはずだった。実際、家宣は自らの跡を時の尾張藩主・徳川吉通(とくがわ よしみち)に譲るべきかと考えたことがある。
ところが、吉通は家継の死の少し前に病で亡くなり、その子の五郎太も跡を追うように亡くなっている。尾張徳川家はむしろ血筋が絶えるかどうか、という状況に追い込まれてしまったのだ。

結果として8代将軍の後継者候補となったのは、吉通の弟で尾張藩主になった徳川継友(とくがわ つぐとも)、御三家当主として最高齢だった水戸藩主・徳川綱条(とくがわ つなえだ)、家宣の弟で館林藩主の松平清武(まつだいら きよたけ)、そして吉宗という面々だった。
この中で吉宗が選ばれたのは、御三家の中で二番目という家格もあったろうが、それ以上に家宣の正室および彼女の周辺の老中たちが彼を推したことが大きかったようだ。

このように、人事は本人の性質だけでなく(もちろん、吉宗が紀伊藩政で改革に成功していたことは評価されただろうけれども)、そのときの状況やライバルの有無、人事に発言権のある人間の存在などにも大きく左右されて決定されるものなのである。

御側御用取次の活躍

さて、将軍になった吉宗は、後世に「享保の改革」と呼ばれる一連の政治改革を断行し、幕府の財政状況を一時好転させることに成功する。
そして、改革実行のための手駒として、綱吉や家宣がそうであったように、自分の子飼いの家臣団を江戸城に入れ、直臣とした。その数は200人あまり――とはいえ、家宣の時とは違い、10年にわたって少しずつ移動させたようだ。

特徴としては、小姓・小納戸といった将軍の身辺を担当するものたちが元紀伊藩士に総入れ替えされたこと、紀伊藩の広敷伊賀者(ひろしき いがもの)――すなわち忍者が直臣に取り立てられて御庭番(おにわばん)という新設の職につけられ、諸国の動静や役人たちの素性、世間の噂など、情報収集に励んだこと、そして側用人を廃上して御側御用取次(おそばごようとりつぎ)という職を作ったことなどがあげられる。

御側御用取次の仕事内容は文字どおり、大老や老中、若年寄たちの詰所である御用部屋との連絡役を果たすことである。
つまり、側用人の仕事と非常に似通っている。吉宗は側用人が幕政において強い発言力を持つという形を変えるため、側用人を廃止してこれを設置したわけだが、実際にはかつての側用人と同じように強い存在感を有し、たとえば場合によっては吉宗への伺いを立てずに、幕閣からの申し出すら拒否することがあったとされる。

さて、その御側御用取次として大きな力を振るったのが、紀伊藩出身の加納久通(かのう ひさみち)と有馬氏倫(ありま うじのり)の両名である。
彼らは、吉宗が紀伊藩で藩政改革を執り行っていたときからの側近であり、吉宗の将軍就任にしたがって直臣になり、この職を与えられたわけだ。

まず氏倫の家は、もともと筑後国久留米藩主の有馬家の一族が、徳川忠長に仕えるも主君が改易され、やがて紀伊藩に仕えるようになったものである。吉宗の側近としての活躍を評価され、伊勢国西条藩1万石を与えられた。彼の血筋は幾度か転封を繰り返しつつ、明治維新まで続いている。

一方、久通の家は松平の流れで、戦国時代には徳川家臣だった。やがて徳川家康の小姓を経て徳川家宣に付き従い、以来代々紀伊藩士だったのが、久通の代に直臣へと戻ることになったわけだ。
同じく吉宗の側近としての活躍を評価され、伊勢国八田藩1万石を与えられた。一度転封を経験したが、こちらも明治維新まで続いている。

この両者は対照的な性格をしていたようで、氏倫は「人喰犬」にたとえられてしまうようなきつい性格の持ち主であったのに対し、久通はあくまで温厚な性格であったという。
また、このふたりがあくまで1万石の大名にしかならなかったのは注目すべきポイントであろう。彼らは柳沢吉保や間部詮房のように広大な所領を与えられることはなかった。

同じく吉宗に寵愛された側近として、やはりテレビドラマなどで有名な大岡忠相(いわゆる「大岡越前」)がいる。彼もまた旗本から取り立てられて町奉行出身としては唯一、大名になったものの、1万石止まりだった。
側近に権勢を振るわせないように幕府のあり方を変えようとした、その吉宗の強い意志がここに表れている、といっていいだろう。

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