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【クーデターで読み解く日本史】藤原氏隆盛の礎となったクーデター――長屋王の変

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729年(天平元年) ○藤原四兄弟 ×長屋王

持統天皇の時代、政治で大きな力を振るったのは藤原不比等(ふじわら の ふひと)という人物で、藤原氏の祖・中臣鎌足の子である。日本で最初の本格的な律令とされる大宝律令についても彼の主導する部分が大きかったとされる。

その不比等の死後、政権を主導する立場になったのは長屋王(ながやおう)という皇族だ。
彼は天武天皇の息子と天智天皇の娘の間に生まれた子で、しかも持統天皇の息子と元明天皇の間に生まれた娘を妻に迎えた、非常に高貴な身分の人物であった。
皇位継承候補になったこともあり、また不比等の娘も嫁いでいるというから、どれほど注目された重要人物であったか分かっていただけるかと思う。政治家としての業績には三世一身法(自ら用水路を開き、新田を開発したならば、三世代所有を認める)の制定がある。

これを敵視したのが不比等の四人の息子たち、武智麻呂・房前・宇合・麻呂のいわゆる「藤原四兄弟」(それぞれ、藤原南家・北家・式家・京家の祖)である。長屋王の台頭が新興貴族である自分たちにとって危険であると考えた彼らは、時の聖武天皇の後継者をめぐって長屋王の排除をたくらんだ。

不比等の娘・光明子(こうみょうし)は聖武天皇との間に男子を生んだ。
この男子が次期天皇になれば藤原氏は天皇と外戚関係になることができるはずだった。しかしこの男子は病弱で、早くに亡くなってしまう。しかも、聖武天皇はその後別の女性との間に男子を設けた。この子が天皇になってしまってはまずいと思った藤原四兄弟は、光明子を皇后(天皇の正妻)に昇格させようと考える。
皇后は皇位を継承することができる立場だったのだ。前例としては推古天皇(敏達天皇の皇后)や持統天皇(天武天皇の皇后)などがいる。

しかし、皇族出身以外の女性が皇后になることは律令によって禁止されていた。当時の政治における第一人者であった長屋王は規律を重視する人であったとされるし、そうでなくても皇族である彼が、皇族全体の地位を貶めかねない皇后の出現を認めるわけがない。
そもそも藤原氏の勢力拡大に対してもいい印象は持っていなかったようだ。藤原氏の権勢を守りたい四兄弟としては、長屋王を排除する以外の選択肢はなかった、というわけである。

かくして729年(天平元年)2月、長屋王の変が勃発する。
「長屋王は左道(呪術)を学び、国家の転覆をたくらんでいる」と密告がなされるとすぐさま兵が彼の邸宅を包囲。しばらくして長屋王とその一族は自害して果ててしまったのだ。

先述したような事情に加え、包囲した兵の指揮官や長屋王を尋問した役人の中に四兄弟がいたこと、さらに変の後に四兄弟がさらに出世を遂げ、半年後に光明子が皇后に昇格したことなどから、この一件は藤原四兄弟による陰謀であった、と考えるのが一般的になっている。
以後、藤原四兄弟は国政をほしいままにしていく――とはいかず、この後しばらくは時に武力も用いられるような政変、クーデターが断続的に続いていくことになるのだった。

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