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【クーデターで読み解く日本史】男女関係の悪化がクーデターに発展した男の悲哀――藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)

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764年(天平宝字8年) ○道鏡 ×藤原仲麻呂

光明皇太后と孝謙上皇という後ろ盾を持ち、淳仁天皇の信頼を得て、向かうところ敵なしとなった藤原仲麻呂。彼の権勢が揺らぐ第一のきっかけとなったのは760年(天平宝字4年)大恩人である光明皇太后の死だった。

それでももうひとりの後ろ盾である孝謙上皇は健在だった。
彼女はある時期、仲麻呂の家に居候をしたこともあって「両者は恋仲ではなかったのか」という話もあるほどの関係だったため、まだ仲麻呂の絶頂期は続くかに見えた。

しかし、最後の命綱であった孝謙上皇の寵愛が途切れる時がくる。
法相宗の僧・道鏡(どうきょう)が孝謙上皇の体調不良を快復させて彼女の寵愛を勝ち取るに至ったのである。二人が親密な関係になったという噂が流れ、仲麻呂は現天皇である淳仁天皇を通して注意すると、これが孝謙上皇の気に障った。
結果、「国の大事は自分が、小事は淳仁天皇が仕切るようにする」と権力を分裂させてしまう。こうして仲麻呂・淳仁天皇と道鏡・孝謙上皇がそれぞれタッグを組んで対立する構図ができ上がってしまったのである。

重要な権限を掌握した孝謙上皇は仲麻呂派の官人(かんにん)を次々と解任させ、地方へ飛ばしていく。
これに対して764年(天平宝字8年)9月、仲麻呂は軍事力にものを言わせる選択をした。当時から軍事力の基盤であった東国の軍力を自分の手で動かせるように仕向け、その兵力を都に集結させようとしたのだが、ここで密告をされてしまう。

仲麻呂と孝謙上皇はついに武力によって争うこととなった。
まず上皇方は淳仁天皇のもとにあった鈴印(れいいん=天皇の印、国家権力の象徴)を奪う。仲麻呂の子・訓儒麻呂(くすまろ)がこれを奪い返したものの、彼は間もなく殺されてしまい、仲麻呂方による再奪還の試みも失敗したので、印は孝謙上皇のものとなる。
印を奪われた仲麻呂は自分の勢力である近江へと逃げたが、上皇方が一枚上手だった。近江国府へと入るための橋を落としていたのだ。そこで仲麻呂は子の辛加知(しかち)がいる越前に向かい、都に置いてきてしまった淳仁天皇の代わりに、天武天皇の孫・塩焼王(しおやきおう)を新たな天皇として即位させることにした。

仲麻呂の思惑としては、この越前で体勢を整えて逆襲したかったのだろう。
しかし上皇の命を受けた討伐軍は越前まで進み、仲麻呂方を破った。仲麻呂は舟で逃げたものの捕らえられ、処刑されてしまった。こうして仲麻呂の乱は終結する。
その後、淳仁天皇は淡路に幽閉され、孝謙上皇が称徳天皇として再び天皇の座に返り咲いた。道鏡が主導する仏教政治の時代が始まったのである。

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