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【クーデターで読み解く日本史】希代の出世頭・藤原良房の真骨頂――応天門の変

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866年(貞観8年) ○藤原良房 ×伴善男

承和の変以後、藤原良房と藤原北家がその勢力を磐石なものにしつつあった時期に起きたのが応天門の変である。
866年(貞観8年)閏3月、平安京内裏・朝堂院(本来は政治の場であったが、やがて儀式の場となった)の応天門が焼けてしまう事件が起きた。この一件の容疑者として当初名前が挙がったのは左大臣の源信(みなもと の まこと)で、一部勢力が彼の屋敷を包囲しようという動きまであったが、良房がこの動きを抑えた。

その後は調査に進展もなく事件は謎のままで終わるかに見えた8月、大宅鷹取(おおやけ の たかとり)という官人が「応天門を焼いたのは大納言・伴善男(とも の よしお)である」と申し出た。
直ちに捕らえられて尋間を受けた善男は潔白を主張したが、鷹取の娘が善男の従者によって殺害されるという事件が起き、かつこの従者が拷間の末に「応天門焼失は源信失脚をたくらんだ善男の犯行(善男は先述した源信の館包囲に加わっていた)」と「自白」したので、善男はついに応天門放火の犯人にされてしまった。処分は伊豆への配流で、その地で亡くなっている。

本当に誰かが放火したのか、それともただの自然発火に過ぎないのか。
真相はともあれ、この一件でもっとも利を得たのは良房であった。有力豪族である伴氏(もとは大伴氏といい、非常に力と権威のある一族だった)の出身にして才覚あふれる能吏として出世階段を駆け上っていた善男を排除し(善男がむしろ良房と良好な関係にあったことから、良房は別に善男を能動的に攻撃したわけではなく、ただ見捨てただけだ、という見方もある)、また源信という政敵に恩を売ったのである。

良房が皇族でない人間としてはじめての摂政の座を獲得したのはまさにこの騒動の只中、8月のことであり、それに源信らが反発しえなかったのはこの事件の影響であると考えていいだろう。
摂関政治が完成し、藤原摂関家が大きな力を得る過程において、他勢力を排除したこの事件の占めた役割は大きかったのである。

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