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【クーデターで読み解く日本史】奥州藤原氏と「武門の棟梁」の誕生――後三年の役

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1073年(永保3年)~1087年(寛治元年) ○清原清衡・源義家 ×清原真衡・清原家衡

前九年の役の実質的な勝利者として陸奥・出羽両国に強大な勢力を獲得した清原氏だったが、急速に拡大しただけに内部には少なからず不和の種を抱え込むことになった。

特に大きな問題になったのが、清原武則(きよはら の たけのり)の子・武貞(たけさだ)の後継者問題である。
最初の妻の子である真衡(さねひら)、後妻として入った安倍頼時の娘との間に生まれた家衡(いえひら)、さらに彼女の連れ子である清衡(きよひら)の二人が後継者候補になりうる、非常に危険な状態になっていたのだ。

武貞の死後は真衡がその後を継いだが、1083年(永保3年)、彼の養子・成衡(なりひら)の婚礼の式で事件が起きる。
一族の重鎮である吉彦秀武(きみこ の ひでたけ)が真衡の無礼な振る舞いに激怒、家衡と清衡を味方に取り込んで兵を挙げたのだ。ちょうどこの年、源頼義(みなもと の よりよし)の子で前九年の役でも活躍した源義家(みなもと の よしいえ)が陸奥守として下向してきて(成衡の妻になった女性は義家の異母妹にあたる)、彼は早速この一件に真衡側として介入する。

ところが、その真衡が陣中で病没すると、義家は本来の跡取りであるはずの成衡をその地位から追いやり、清衡と家衡に奥六郡を半分ずつ分け与える形で解決しようとした。
しかし清原一族内部の不和、勢力争いは兄弟を再び対立状態へ追いやり、ついに家衡が清衡を攻撃する事態へ発展する。妻子を殺されながらもかろうじて生き延びた清衡は義家を頼り、清衡・義家連合軍と家衡の戦いになった。

最後の決戦になったのは1087年(寛治元年)11月、家衡のこもる金沢柵(かねざわさく、かねざわのき)を連合軍が包囲した戦いである。この戦いの中で、義家は空を行く雁の群れが列を乱したことから伏兵が潜んでいることを察知した、という逸話が知られている。
金沢柵の戦いは連合軍の勝利に終わり、清原氏は清衡が継承することになった。後に清衡は分裂した一族の融和に努めるとともに、実父の姓をとって藤原を名乗った。
源頼朝と鎌倉幕府に滅ぼされるまで三代にわたって大いに栄えることになる奥州藤原氏の始まりである。

一方、戦いを主導した義家に朝廷から恩賞が下されることはなかった。
「あくまで私戦に介入したのみ」と判断されたからである。そこで義家は自らの財産を裂いて部下たちに恩賞を与えたため、むしろ東国における源氏の基盤は磐石なものとなり、また「源氏こそ武門の棟梁」という名声を強化する方向に働いた、とされる。

平忠常の乱、前九年の役、後三年の役と続く一連の東国での争いは、当時の中央政権からすればあくまで地方の紛争でしかなかった。
しかしこれらの戦いの中で力をつけた源氏は、やがて権力闘争の主役として躍り出してくることになるのである。

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