1159年(平治元年) ○平清盛 ×源義朝・藤原信頼
保元の乱によって政治の実権を握った後白河天皇は、それから間もない1158年(保元3年)には予定通り皇位を子の二条天皇に譲って上皇になっている。
この後白河上皇の側近として大きな力を振るったのが保元の乱でも活躍した藤原信西(ふじわら の しんぜい)という人物だった。
しかし力が強ければ、それだけ彼を憎み、排除しようという動きも大きくなる。同じく後白河上皇の側近で急速に躍進を遂げていた藤原信頼(ふじわら の のぶより)、二条天皇による親政(天皇による直接政治)体制を築こうとしていた藤原経宗(ふじわら の つねむね)・惟方(これかた)、そして源義朝(みなもと の よしとも)らが反信西派を形成したのである。
さて、この中に義朝が加わった理由については、古くから保元の乱での恩賞が乏しかったからだとする、いわゆる「平氏への嫉妬説」が通説として語られてきた。
先述したように保元の乱で後白河天皇方が勝てたのは義朝の活躍による部分が大きく、にもかかわらず出世したのは平氏一族ばかりだった。これは政治に長ける平清盛らの工作によるものだ。許すまじ――と怒りに燃えた義朝は清盛と手を組んだ信西を倒すために信頼の味方になったのだ、というわけだ。
しかし、これに対しては「一族が分裂した源氏は評価が低くて当然」「当時の源氏と平氏では政治的な立場が違い、その視点で見るとむしろ義朝に与えられた恩賞は院政における重職であり、過分なほどだった」「そもそも清盛は中立派で、信西ベッタリではなかった」といった反対意見があることは付記しておきたい。
どちらにせよ、義朝は反信西派の一人として兵を挙げ、信西を強襲した。平治の乱の始まりである。
このとき信西はかろうじて逃げ延びるのだが、その先で死んでしまう。殺されたのだとも、自殺したのだとも言う。
そして、反信西派の絶頂はここまでだった。熊野詣でに出ていた清盛が京に帰還、当初は信頼らに従う振りをしつつ彼らの分断工作にかかったのである。
もともと「信西打倒」で一致していた彼らには今後の政治に対する一致した意見などというものがなかったためにこの工作はうまくいき、経宗・惟方は信頼を見捨てた。また、後白河上皇と二条天皇を京より脱出させることにも成功した。
追い詰められた義朝は決戦を挑むが敗れ、逃げ延びた先で裏切りにあって殺害される。信頼も捕らえられ、こちらは処刑された。平治の乱はこうして平清盛の勝利に終わったのである。
この戦いの後、清盛と平氏一族の力はいよいよ高まっていく。しかし、そのことがまた新たな事件を起こすことにもなってしまうのだった。