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【クーデターで読み解く日本史】逆らう者は将軍でも間答無用――比企能員の変

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1203年(建仁2年) ○北条時政 ×比企能員

梶原景時を排除したことによりますます力を強める北条氏だったが、まだまだ強力なライバルはいた。将軍・源頼家(みなもと の よりいえ)の側近中の側近であり、頼家の妻・若狭局(わかさのつぼね)の父である比企能員(ひき よしかず)だ。
若狭局はこの頃すでに頼家の子・一幡(いちまん)を産んでいた。順当に考えて、頼家の跡は彼が継ぐことになるはずである。そうなった場合、比企一族は「将軍の身内」としてこれまで以上に大きな力を振るうのは目に見えていた。

そんな中、頼家が病に倒れ重体になる。
ここで北条時政と娘の北条政子は頼家の跡継ぎについて「全国の総守護職と関東二十八国の地頭は一幡に、関西二十八国の地頭は頼家の弟の千幡(せんまん)に」と分割相続を決定してしまう。
もちろん、「すべて一幡が継承するべき」と考える比企氏がこんな内容で納得するはずがない。能員は病に伏せる頼家を訪ね、北条討伐を計画した。

その話をこっそり聞いていたのが政子であった。
彼女はさっそく父に報告し、これを受けた時政は法事という名目で能員を自宅に呼び出す。討伐の話が漏れてしまっていることなど知らない能員は、一族のものに止められたが「行かないと逆に怪しまれてしまう」といって北条家を訪ねてしまう。
もちろん、これは時政の罠だった。能員は北条邸で殺害され、続いて比企一族と一幡も殺されてしまったのである。

残された頼家は将軍の地位を奪われ、まだ生きているにもかかわらず死んだことにされて伊豆の修善寺に幽閉されてしまった。
それでも主導権を取り戻すために時政の暗殺などもたくらんだがうまくいかず、逆に自分が暗殺されてしまったのである。
頼家の跡を継いだのは千幡で、源実朝(みなもと の さねとも)と名乗った。しかし当時まだ12歳の子どもだったので、時政が執権(将軍の補佐職)に就任し、政治の実権を掌握する。以後、この執権職を北条氏(その中でも得宗家と呼ばれる血筋)が独占し、幕府を動かしていくことになる。

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