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【クーデターで読み解く日本史】勝敗を分けたの二枚舌――和田合戦

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1212年(建暦2年) ○北条義時 ×和田義盛

泉親衡の乱での屈辱的な扱いを受け、和田氏は幕府打倒の軍を挙げた。
この挙兵に際しては、先の屈辱に怒り、また北条義時の陰謀を察知してこれを打ち砕くために義盛が率先して動いたのだとも、あるいは義盛自身は「実朝に恨みはないから逆らう気などない」と幕府方の使者に申し出たようにその気はなかったのだが、胤長(たねなが)への恥辱に怒る一族の若い者たちを止めることができなかったのだともいう。

ともあれ、和田氏以外にも味方が集まり、反乱軍は数千の規模に拡大した。義盛は彼らを率いて将軍御所を強襲、これを焼き落とすが、実は実朝らは義盛たちの決起を把握しており別所に避難していたのだった。
この時、義盛たちの挙兵を伝えたのは梶原景時の変や牧氏事件で北条氏に協力した三浦義村(みうら よしむら)だ。彼は和田氏と同じ三浦一族で、はじめ和田氏に味方するという文書まで書いたが、後になって北条氏側につき、義時に義盛らの挙兵について密告したのである。

やがて鎌倉を舞台に和田勢と幕府勢が激突。2日間にわたる激しい戦いの末に、実朝の発した「義盛を討伐させよ」という命令がターニングポイントになって和田勢は劣勢に追い込まれ、ついに打ち破られたのである。
和田氏の滅亡後、侍所別当の職は義時のものになり、すでに占めていた政所別当の職と含めて義時と北条氏の権勢は明らかなものになった。さらに和田氏の所領も北条氏が吸収してしまったのである。

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