1305年(嘉元3年) ○北条貞時 ×北条時村・北条宗方
有力御家人を倒し、同じ北条氏とも争い、地力をつけすぎた御内人をも排除することによって政権を独占してきた北条得宗家だったが、1305年(嘉元3年)にはついに得宗家内部で政争が発生する。
嘉元の乱である。この頃、北条貞時(ほうじょう さだとき)は従兄弟で娘婿の師時(もろとき)に執権の座を譲っていた。
侍所(さむらいどころ)所司(しょし=次官)の北条宗方(ほうじょう むねかた)が「将軍の命令である」と称して連署(れんしょ=執権の補佐役)の北条時村(ほうじょう ときむら)を殺害させた。これを知った貞時はすぐさま時村殺害の実行者たちを処刑すると、軍を派遣して宗方を討たせてしまったのである。
この事件の主要人物である貞時、宗方、時村、師時の四人はそれぞれ従兄弟関係にあり、宗方としてはまず時村を、ついで師時を討って執権の座を我がものにしようと画策していたらしい。
貞時がなかなか健康な男児に恵まれなかった、という事情も彼の野心に火をつけたのだろうか。