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【クーデターで読み解く日本史】政権を朝廷にもたらした後醍醐天皇の執念――元弘の乱

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1331年(元弘元年)~1333年(元弘3年) ○後醍醐天皇 ×鎌倉幕府

正中の変は失敗したが、後醍醐天皇はあきらめなかった。
自分の息子たちを宗教勢力ヘ送り込んで働きかけ、また悪党と呼ばれる反幕府の新興勢力を味方につけ、新たなクーデター計画を立てていた。
ところがこのたくらみはまたも1331年(元弘元年)に発覚。京を逃れた天皇は幕府軍と戦うもかなわず、捕らえられて隠岐に流されてしまう。

それでも後醍醐天皇方は幕府への反抗を続けた。
翌年末に皇子・護良親王(もりよししんのう)や先の挙兵でも活躍した楠木正成(くすのき まさしげ)らが再び挙兵、さらにその翌年には天皇自身も配流先の隠岐を脱出してこの戦いに加わったのである。

もちろん幕府は再び天皇方討伐に動いたが、この頃になると幕府の足元も大いに揺らいでいた。
御家人たちの幕府への不満が高まっていたのである。その背景には北条得宗家への権力集中に対する反発や、御家人たちの窮乏化があった。
特に後者は深刻で、貨幣経済に適応できず多額の借金を背負って土地を手放す御家人や、分割相続(親の土地が兄弟姉妹にそれぞれ分け与えられるため、世代を経るごとに土地が狭くなっていく)のせいで生活が立ち行かなくなる御家人が続出した。

鎌倉時代後期、二度にわたって中国の元王朝から侵略を受け(元寇)、退けたものの防衛戦争であったために得たものが少なく、御家人たちが満足する恩賞を与えられなかったのも大きかった。
そうした御家人たちの苦しみが幕府への怒りに転化したのである。

そんな中、源氏の名門出身で御家人たちからの人気も高かった足利尊氏(あしかが たかうじ=この頃は高氏。後に改名)が天皇方討伐に派遣されたにもかかわらず、幕府を裏切って後醍醐天皇についたことが大きなターニングポイントとなった。
尊氏の軍勢が京における幕府の重要拠点である六波羅(ろくはら)を攻め落とし、その一方で鎌倉も新田義貞(にった よしさだ)率いる天皇方の軍勢によって陥落したため、鎌倉幕府は滅亡したのである。

戦後、後醍醐天皇は自らが頂点に立つ政府を創設し、新たな政治を始めた。いわゆる建武の新政である。
しかし、そんな天皇を支持して幕府打倒に活躍したのは、保守的な公家、新興勢力の悪党、武士政権ではなく北条家への反発のほうが強かった御家人たちとそれぞれに意識のまったく違う人々の寄せ集め集団に過ぎなかった。
さらに後醍醐天皇は武士たちが最重視する土地問題について「自分が一人ですべて決済する」としたが、全国から持ち込まれる訴訟は完全に天皇の処理能力を超えていたためすぐにパンクし、結果として新政府への不満が爆発することになる。これらの条件が重なり、新政府は誕生間もなく不協和音を立て始めることになるのだった。

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