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【クーデターで読み解く日本史】北条氏の残党討伐をめぐる足利尊氏の思惑とは?――中先代の乱

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1335年(建武2年) ○足利尊氏 ×北条時行

鎌倉幕府滅亡に際して、得宗・北条高時(ほうじょう たかとき)とその一族の多くが鎌倉で自決して果てた。
しかし、14代執権・北条高時の息子・時行(ときゆき)は生き延びて鎌倉を脱出、信濃で諏訪一族にかくまわれて力を蓄え、1335年(建武2年)に挙兵する。

この戦いを「中先代(なかせんだい)の乱」と称するのは、鎌倉幕府で政治を掌握した北条氏のことを「先代」、室町幕府の将軍である足利氏のことを「当代(後代)」と呼ぶことから、その間に位置する時行を「中先代」と呼んだためだ。
時行の軍勢を迎え撃ったのは足利尊氏の弟・直義(ただよし)の軍勢であったがかなわず、鎌倉を明け渡して脱出することになった。

これを受け、尊氏はすぐさま京を出陣するのだが、そこでひと悶着があった。
征夷大将軍・総追捕使(そうついぶし)に任命するよう願った尊氏に対して、天皇は首を縦に振らなかったのだ。これは、建武の新政の失敗で武士たちの心が離れ始めていた天皇に比べ、尊氏はまさに武士の代表としての立場を確保しており、その野心を警戒したものと考えられる。
もし尊氏を征夷大将軍としてしまえば、鎌倉幕府の再来を招くのではないか、と恐れたのだろう。

結局天皇の許可を得られぬままに鎌倉へ向かった尊氏は、途中で直義と合流し、時行の軍勢と戦う。途中、激烈な抵抗にてこずる場面もあったが、勝利したのはやはり尊氏の軍勢で、時行が鎌倉を占領していたのは1ヶ月に満たない短い期間に過ぎなかった。
時行自身はどこへともなく落ち延びたが、翌年に捕らえられて殺されたという。

鎌倉を再奪取した尊氏は天皇が与えてくれなかった征夷大将軍の地位を自称するようになり、独自の体制を構築し始める。これはすなわち、建武の新政と後醍醐天皇に反旗を翻したことにほかならない。

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