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【クーデターで読み解く日本史】争いの発端となった二人が最後は共倒れ――観応の擾乱

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1350年(観応元年)~1352年(観応3年) ○足利尊氏 ×足利直義

南北朝動乱の時代とはいうが、実のところほとんどの時期において南朝方は劣勢に立たされ続けていた。
1338年(延元3年)には北畠顕家(きたばたけ あきいえ)と新田義貞(にった よしさだ)という南朝方の有力な武将が相次いで倒れ、その翌年には後醍醐天皇自身も亡くなってしまった。これでは勢力が衰退していってしまうのも無理はない。

北朝と室町幕府にとっての問題は、外よりもむしろ内にあった。
ここまで足利尊氏を強力にサポートしてきた弟・足利直義(あしかが ただよし)と、尊氏の側近である高師直(こう の もろなお)が対立するようになってしまったのである。
これはそもそも当初の室町幕府が「軍事は尊氏、政治は直義」という二人の権力者が並立する体制にあったために分裂しやすい状況だったことに加え、「新興勢力の支持を受ける師直と保守的勢力が期待する直義」という政治的な立場の違いが両者の対立を加速させたのだと考えられる。

直義が尊氏に掛け合って師直を執事(尊氏の側近)から解任させれば、師直は大軍を京に呼び集めて脅しをかけて直義を政治の中央から追放した。
そうした政争が続く中、やはり反師直派であったという足利直冬(あしかが ただふゆ=尊氏の実子で直義の養子に入っていた)を尊氏が討伐することになった。その出陣直前の1350年(観応元年)10月、直義は京を脱出して南朝方と連絡を取り、兄および師直に反旗を翻した。室町幕府を揺るがした内乱、観応の擾乱の始まりである。

こうしてぶつかり合うことになった尊氏・師直と直義だったが、合戦で優位に立ったのは直義だった。そこで「師直が出家する」という条件で講和が成立したのだが、間もなく師直は殺害されてしまう。
これで兄弟の間に再び平和が訪れるかに見えたのだが、残念ながらそうはいかなかった。両者およびその家臣団の関係は修復不能なほどに険悪になっており、あまり時間をおかず再び相争うようになったのである。

尊氏は鎌倉に入った直義を打倒するため、あえて南朝へ降伏して京の安全を確保すると(そのため、この時期は南北朝の動乱は一時期治まっていたともいえる)関東へ進み、決戦を挑んだ。
敗れた直義は兄に降伏したが幽閉されてしまい、間もなく病没する。この直義の死については謀殺説が根強い。

かくして、観応の擾乱の導火線となった足利直義と高師直は相次いで倒れた。
しかし南朝が先の降伏にもかかわらず京を攻め、また直冬も独自に動き続けたため、この後もしばらく尊氏は各地を奔走することになるのだった。

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