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【クーデターで読み解く日本史】幼い将軍の成長が呼んだ守役の悲劇――康暦の政変

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1379年(康暦元年) 〇斯波義将 ×細川頼之

室町幕府3代将軍、足利義満は南北朝時代を終わらせた男である。
彼はその頃すでに挽回しようがない劣勢に立っていた南朝に働きかけ、「南北朝から交代で天皇を出す」という約束で和睦を実現させた。
結果、南北朝の合一が果たされた――ただし義満が約束を果たすことはなかったので、本書でこの後にも紹介するような南朝残党の反乱が室町時代を通じて何度も起きることになる。

また、京にある室町の地に住居と政庁の役割を果たす「花の御所」を建てて「室町幕府」と呼ばれる由縁を作ったのも義満だし、明との貿易を進めて莫大な収益をあげもした。
このように、義満は室町幕府の全盛期ともいえる華やかな時代を作り上げた傑物だったのである。

しかし、その義満も1368年(応安元年)に将軍になった時は若冠11歳の少年に過ぎなかった。
父である2代将軍・義詮(よしあきら)がわずか38歳で亡くなってしまったためである。この若い将軍を支えたのが管領・細川頼之(ほそかわ よりゆき)であった。実質的に政治を取り仕切り、義満の養育に熱心に取り組んだ彼は、その政治手腕が少なからず強引であったため、守護大名たちから反発を受けることになった。

特にこの頼之批判の急先鋒だったのが細川氏に匹敵する名門斯波氏の斯波義将(しば よしゆき)で、これに山名・土岐・京極といった有力守護も与した。
1379年(康暦元年)、義満は彼らの反発をどうにか抑えようとし、さらに一部勢力は討伐しようとしたがかなわず、ついに頼之が管領を辞職。一族を引き連れて京を離れることになった。代わって管領になったのが義将である。

この事件を一面的に見れば「守護大名を抑えきれず有力な側近を失った」ということになるのだが、実は別の見方もできる。
つまり、十分な年齢に達した将軍が、幼少期から自分の行動をある意味で制限していた補佐役を追放し、自らの手で自由に政治
を行えるようになった、ということである。

実際、この事件以降は義満の力は急激に拡大していき、また守護たちの力を抑えて独裁的な政治を行っていくのである。そのため、事件の背景に義満のたくらみがあったのでは、とする見方さえあるほどだ。

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