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【クーデターで読み解く日本史】義満が巧妙に張り巡らせた同志討ちの計略とは?――明徳の乱

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1391年(明徳2年) ○室町幕府 ×山名氏清・満幸

足利義満の時代、山名氏は丹波・丹後・因幡・伯者・美作・但馬・和泉・紀伊・出雲・隠岐・備後と、西国に11ヶ国もの守護職を独占する有力守護大名一族であった。
これはなんと全国66ヶ国の6分の1という途方もない数であったため、人々は彼らのことを「六分の一衆」と呼んだ。また観応の擾乱に際しては足利直義(あしかが ただよし)側について後に帰順したという経歴もあったので、義満としては警戒するべき対象であった。

しかし、この山名氏も、一族の長であった山名時義(やまな ときよし)が1389年(康応元年)に死ぬと内部に不和の兆候が垣間見えるようになった。
これに付け込んだ義満は「時義の子である時熙(ときひろ)・氏之(うじゆき)兄弟を討伐せよ」と兄弟の伯父・氏清(うじきよ)および従兄弟・満幸(みつゆき)に命じた。分家筋の人間に本家筋の人間を攻撃させ、内部で争わせることで山名氏全体の力を削ごうとしたわけだ。

それから2年後の1391年(明徳2年)、義満は突如として態度を変える。
許しを乞うてきた時熙・氏幸兄弟の申し出をあっさりと受け入れ、逆に「上皇の所領を横領した」という理由で満幸を京より追放してしまったのである。これに不信感を募らせた満幸は氏清を味方に引き込み、謀反を計画した。

しかし、すでに分裂していた山名氏と、奉公衆と呼ばれる直轄軍を整備して軍事力の拡大に励んでいた幕府では、戦いの結果は火を見るより明らかであった。
内野(うちの)の地で行われた戦いの結果、氏清は討ち死にし、満幸は逃亡(後に討たれる)。明徳の乱は義満の思惑通りに終結し、かつて11ヶ国を数えた山名氏の守護職はわずか三ヶ国に減らされてしまった。

幕府にとって山名氏を組み伏せたことの意味は大きく、その権力がある程度の確立を見て、長く続いた動乱の時代は実質的にここで一区切りとなった。
実際、南北朝の合一が果たされたのはこの翌年のことである。

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