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【クーデターで読み解く日本史】鎌倉公方の夢の先には戦国の扉あり――永亨の乱

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1438年(永亨10年)~1439年(永亨11年) ○室町幕府 ×足利持氏

上杉禅秀の乱の項で紹介したように、鎌倉公方・足利持氏(あしかが もちうじ)は幕府との対立姿勢を深めつつあった。
幕府方勢力を次々と攻撃し、また1436年(永亨8年)には本来鎌倉公方の管轄範囲外である信濃の勢力争いに介入しようとするなど、不遜な振る舞いが目立っていたのである。

その理由の一つには将軍・足利義教(あしかが よしのり)との対立があった。
というのも、持氏としては「自分こそが将軍にふさわしい」と考えていたのだが、実際に将軍になったのは義教だったため、このことを強く恨んだようなのである。一方の義教も富士山の遊覧という名目で駿河へ赴く挑発的行為をするなど、両者の関係は急激に悪化していく。

この二人の関係をどうにか取り持っていたのが関東管領・上杉憲実(うえすぎ のりざね)だったが、その憲実と持氏の関係も険悪になる。
ついに1438年(永亨10年)、憲実は上野へ脱出し、これを追おうと持氏も出陣した。永享の乱の始まりである。

義教は各地の勢力に打倒持氏のため出陣するよう命じた(本人は自ら出向いて持氏を滅ぼしたかったらしいが、さすがにこれは重臣たちにより止められている)。
しかも鎌倉公方の勢力基盤であるはずの関東でも幕府方・管領方につくものが続出する始末で、これでは持氏に勝ち目などあるはずもない。

追い詰められた持氏は寺に入って降伏の意思を示し、憲実としても主君を殺すのは寝覚めが悪かったのか、幕府に助命を願い出た。
しかし、義教がこれを許さない。もともと彼は残忍で執念深い気質の持ち主であり、「万人恐怖」と恐れられるような男だった。そんな彼が長年のライバルを許すはずもない。
結局、1439年(永亨11年)2月、憲実は持氏を攻め、火を放っての自害へ追いやらざるを得なかったのである。

こうして四代にわたって続いた鎌倉公方は途絶え、鎌倉府も一時消滅することになった。
しかし持氏の遺児がまつわる内乱はこの後も結城合戦に享徳の乱と続き、関東地方は他地域より先に戦国時代へと突入していくことになる。

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