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【クーデターで読み解く日本史】応仁の乱の種をまいた無気力将軍の大罪――文正の政変

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1466年(文正元年) ○諸大名 ×伊勢貞親と季瓊真蘂

関東が享徳の乱に揺れていた頃、中央でも政争が激化していた。
8代将軍・足利義政(あしかが よしまさ)は政治への意欲が薄く、代わりに正室の日野富子(ひの とみこ)や政所執事(まんどころしつじ=幕府財政を取り仕切る役職)の伊勢貞親(いせ さだちか)、禅僧の季瓊真蘂(きけい しんずい)といった人々が発言力を持つようになった。

特に伊勢貞親は幼少期の義政の教育係的存在であり、その縁もあって強い影響力を持っていたようだ。
この貞親らが大きな役割を果たした事件として、1466年(文正元年)の斯波氏の家督をめぐる争いがある。この名門一族の家督は庶流出身の斯波義敏(しば よしとし)が継承していたのだが、1459年(長禄3年)に義政と対立して追放され、他所から斯波義廉(しば よしかど)が招かれていた、という経緯があった。

ところが貞親や真蘂の働きかけを受けた義政はころっと意見を変え、再び義敏に斯波氏の家督を与えてしまったのである。しかもこの時に貞親が義敏に味方した理由は「自分の妾と義敏の妾が姉妹だったから」という理由だったというから情けない。
このような事態を引き起こしてしまうくらいに政治に熱意がなく、定見にも欠けていた義政は、実子がいなかったために僧侶だった弟の義視(よしみ)をわざわざ還俗させてまで引退しようともくろんだ。

ところが、それから間もなく富子との間に実子・義尚(よしひさ)が生まれたから事態がややこしくなる。
義視としては約束通り将軍になりたいし、富子はなんとしても義尚を将軍にしたい。

そこで1466年(文正元年)、富子と貞親は手を組んで義視の追い落としを図ったのだが、これはうまくいかなかった。
諸大名は一致団結して反抗し、貞親と真蘂を幕府から追放してしまったのである。文正の政変だ。斯波氏の家督をめぐる強引なやり口が反発を買っていたのも大きな原因であったらしい。

有力な側近を失った義政の力はいよいよ衰え、有力守護大名――中でも一族でそれぞれ何ヶ国もの守護を独占していた山名持豊(やまな もちとよ=宗全(そうぜん))と細川勝元(ほそかわ かつもと)の力が強まった。
この二人による幕府の舵取り争いに、先に紹介した斯波氏の家督争い、また同じように家督でもめていた畠山氏の内紛、さらに将軍家の後継者争いまで絡んで対立が激化した結果、京を中心に日本全体が東軍と西軍に分かれて10年を超える内乱に突入することになる。
それこそが応仁の乱である。つまり、文正の政変とは応仁の乱の引き金だった、というわけだ。

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