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【クーデターで読み解く日本史】将軍を手玉にとった六角高頼の知略――長享・延徳の乱

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1487年(長亨元年)~1490年(延徳3年) ○六角高頼 ×室町幕府

応仁の乱のさなか将軍に就任した足利義尚(あしかが よしひさ=足利義政と日野富子の子)が直面した課題は、失墜した幕府と将軍の権威を回復することだった。
そのために彼は1487年(長亨元年)、他人の荘園を勝手に支配して返そうとしない近江守護・六角高頼(ろっかく たかより)を攻めるべく出陣する。

義尚自らが率いる数千の壮麗な軍勢は人々の注目を集めつつ出発し、すばやく六角高頼の本拠地である琵琶湖東へ進軍した。これを受けて高頼は戦わず退却したので、幕府は近江の奪還には成功したものの、目的である高頼の征伐はかなわなかった。
その背景には本来主力となるはずの守護大名たちの足並みがそろわず、管領・細川政元(ほそかわ まさもと)をはじめこの出陣に反対の声が強かったことがあるようだ。

幕府と六角氏との戦いはその後も長引き、大した戦果は得られなかった。
それどころか、幕府軍が撤退をしようとする際に、浪人数千人が攻撃をしかけてくる始末だ。一説に拠れば、伊賀国の国人を高頼が手なずけていたため、義尚が撤退すればいつでも攻め込める算段があったという。
このように幕府方は攻めることも、引くこともかなわない状態に陥り、焦燥感ばかりが募る結果となってしまう。

この長期戦を危険視した政元は陣を移すよう進言したが聞き入れられなかった。
それほどまでに義尚の六角氏討伐の意思は強かったのだが、結局高頼を討伐できないままに体調を崩し、25歳という若さで他界してしまう。

義尚の死後、幕府は条件付きながら六角氏を許している。
しかし、六角氏はその条件にあった寺社本所領の返還を拒否した。そのために1490年(延徳3年)、新たに将軍となった足利義材(あしかが よしき)率いる幕府軍が再び六角氏を攻撃する。

この時の戦いはうまくいき、六角軍の重臣・山内政綱(やまうち まさつな)を打ち取って近江一国を取り戻し、意気揚々と京へ戻ることができた。
このことが将軍の自信を回復し、権威復活に向けたさらなる介入へとつながっていくのだが、残念ながらその試みは最終的には明応の政変によって頓挫することになる。すでに将軍の力は取り戻せないレベルにまで落ちてしまっていたのだ。

この後、六角氏は再び罪を許されており、幕府は六角氏征伐を断念している。

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