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【クーデターで読み解く日本史】覇王の夢を打ち砕いた三日天下の野望――本能寺の変

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1582年(天正10年) ○明智光秀 ×織田信長

戦国時代、日本各地で戦国大名同士の争いや内紛、クーデターが巻き起こされたが、そのほとんどは局地的なものに過ぎなかった。
彼らの多くはまず自分たちの勢力を守り、あわよくばそれを拡大しようと考えていたのであって、天下取りなどというのは夢物語の話だったのである。

そして、戦国時代も後期に入った頃に織田信長が登場する。
元は尾張守護代・織田氏の庶流に過ぎない彼は、駿河の大大名・今川義元(いまがわ よしもと)を倒したことを皮切りに勢力を拡大して上洛を果たし、さらに並み居る大大名たちをなぎ倒してついに天下統一まで後一歩の距離まで近づいた男である。

この頃、信長は本拠地を近江の安土城とし、各地には重臣たちを派遣して制圧にあたらせていた。
関東地方には滝川一益(たきがわ かずます)、北陸地方には柴田勝家(しばた かついえ)が、中国地方には羽柴秀吉(はしば ひでよし=後の豊臣秀吉)、そして近畿地方には明智光秀(あけち みつひで)、といった具合である。

1582年(天正10年)、信長は中国にいる秀吉から「毛利の大軍が攻め込んできたため援軍がほしい」との要請を受けて自ら出陣するべく安土城を出て、京で定宿としている本能寺に入った。この時、彼の周囲にいたのはわずかな供の者だけだった。
そして6月2日の明け方、突如として本能寺を兵が囲む。同じく秀吉の援軍として出陣したはずの光秀の軍勢が、中国へ向かわずに京へ現れ、信長を自害へ追い込んでしまったのである。さらに光秀は二条城にいた信長の子・信忠(のぶただ)も攻め立てて、これもまた自害させた。わずか数時間のうちに、織田信長の天下統一の夢は消え去ったのだ。

しかし、光秀の手に天下がわたったわけではなかった。
信長死亡の知らせを受けた秀吉がすぐさま毛利氏と和睦を結び、ごく短期間で近畿へ戻ってきたからだ。秀吉と光秀は山崎の地で激突し、信長の子・織田信孝をはじめとして多くの味方を得た秀吉が、逆にほとんど味方を得られなかった光秀を倒した。
再起を図ろうと脱出した光秀はその途上で庶民に襲われて死んだ。

光秀がなぜ主君を裏切ったのかについては諸説あるが、それぞれに根拠があって真相は不明である。
信長の同盟者・徳川家康の接待に際して不手際を責められて恨みに思ったことなどに起因するという怨恨説。実は光秀自身もまた天下を狙っていたのだという野望説。この頃光秀が取り組んでいた四国の長宗我部氏との交渉が信長の方針転換で頓挫し、またほかの有力重臣の中に失脚させられるものがいたことなどから、自分の立場を危ぶみ、それを守るために反逆したのだとする保身説。かつて信長に将軍として擁立されたものの、後に対立して追放されてしまった足利義昭(光秀はかつて彼の家臣だった)をはじめとする何者かが仕組んだのだという黒幕説などがそれだ。

光秀の反乱が鎮圧された後、重臣たちが尾張の清洲城で会議を開いた。
この清洲会議では、秀吉が主導権を握って信長の孫・三法師(さんぽうし)を擁立し、自らがその後見人的立場に立った。以後、秀吉は反発する勢力を打ち破って旧織田政権を支配し、さらに全国にまでその手を伸ばして、実質的な天下統一を果たしたのである。

もし本能寺の変で死んだのが信長だけであったなら、秀吉はここまでの躍進はできなかっただろう。
信長には後継者として信忠がおり、彼はすでに織田氏の家督を譲られ、武田氏を攻め滅ぼすなどの功績もあって、信長死後も織田政権をしっかりまとめられるだけの立場にあったからだ。
しかし、その彼が死んだことで、時代は織田から豊臣へと移り変わっていったのである。

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