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【クーデターで読み解く日本史】宗教的反抗の背後に隠された真実とは?――島原の乱

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1637年(寛永14年)~1638年(寛永15年) ○江戸幕府 ×天草四郎

1637年(寛永14年)に勃発した島原の乱(島原・天草一揆)は江戸時代の数少ない合戦の一つだ。舞台となったのは肥前国島原と肥後国天草である。

この農民一揆による武力反乱は一般にキリシタン(キリスト教徒)による宗教弾圧への抵抗と解釈されることが多い。
実際、島原を治めていた有馬晴信(ありま はるのぶ)は代表的なキリシタン大名であり、代わって入った松倉重政(まつくら しげまさ)は江戸幕府の方針を受けて徹底的なキリシタン弾圧を行ったため、これに対する反発も多分にあっただろう。

ただ、別の説もある。
そもそも島原の地はもともと農地が少なく、人々は漁業や貿易で生計を立てていた。しかし、松倉重政は石高を多く見積もり、農民から厳しく年貢を取り立て、それだけにとどまらずあらゆる生活手段に課税し取り立てを行ったのである。
そのため、農民の生活は苦しく、これに対する反発は「キリシタンだから反発しているのだ」という名目でさらなる厳しい弾圧が行われる。

このような状態への不満が大規模な一揆につながった、というのである。
つまり、信仰よりは生活のほうが主原因だ、というわけだ。さらに「キリシタンを名乗れば幕府が島原藩に注目し、無理な統治をとがめてくれるはず」という策略があったのではないか、という見方さえある。

ともあれ、農民たちが代官を殺害したことをきっかけに結成されたこの一揆は、天草四郎(あまくさ しろう=益田時貞(ますだ ときさだ))という少年をリーダーに祭り上げてさらに拡大していく。
寺社を次々と焼き、村々を巻き込みながら島原全土へと広がっていったのである。

この情報はもちろん幕府にも伝わり、上使(じょうし)として板倉重昌(いたくら しげまさ)や松平信綱(まつだいら のぶつな)を派遣して鎮圧にあたらせた。
戦況を鑑みて原城に立てこもった一揆勢を簡単に鎮静化できると考えられていたが、必死の抵抗により幕府方は苦戦を強いられ、板倉重昌が戦死してしまうほど激しい戦いとなった。また、攻城側はなかなか連携がとれず、それも苦戦の原因になったようだ。

結局、本来は戦後処理を担当するはずだった松平信綱が急挙指揮をとり、一揆の鎮圧に当たった。
能吏である彼は力押しが通じないことを悟り、様々な作戦を実行に移していく。まず、ポルトガルからの救援を心待ちにしているであろう一揆軍に対して、同じ南蛮のオランダに船からの砲撃を依頼し、彼らに心理的なダメージを与えた(ただし、外国の力を借りるとは何事だと内部の反発もあったようだが)。
さらに兵糧攻めを行う。持久戦に持ち込んで城内の食料が尽きるのを待ったのである。

これらの作戦の結果、追い詰めた一揆勢に対して、信綱は機をみて総攻撃を仕掛けた。幕府方は彼らをほぼ皆殺しにし、ようやく乱は終結したのである。天草四郎もこの時に死んだという。
戦後、従来から苛烈であったキリシタンヘの弾圧はさらに厳しくなった。またポルトガルとの貿易が禁止され、ヨーロッパ諸国との貿易はオランダ一国のみ、長崎の出島に場所を限定して続けることになった。いわゆる鎖国体制の完成である。

こうして島原の乱は失敗に終わった。
しかし、島原領主の松倉重政は本来武士としての扱いではない不名誉な斬首刑に処されることとなり、天草を領地として持っていた寺沢堅高(てらざわ かたたか)は天草を没収と、事件の原因の一つだったとされる苛政(かせい)問題への処分もされたことは注目すべきことだろう。

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