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【クーデターで読み解く日本史】寵臣の末路はいつの時代も同じ――田沼意次の追い落とし

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1786年(天明6年) ○松平定信 ×田沼意次

10代将軍・徳川家治(とくがわ いえはる)のもとで政治の実権を握って活躍したのが田沼意次(たぬま おきつぐ)である。彼が幕政を主導した時期を称して「田沼時代」という。
意次は当時急速に発展していた商品経済・貨幣経済に注目した重商主義(商業を中心とした政策)を取り、また印旛沼(いんばぬま)開拓による新田開発や蝦夷地の開拓など新しい大型事業にも積極的に手をつけた。
これによって経済は大いに発展したが、一方で賄賂が横行したともいう。

そんな意次に厚い信頼を注ぎ、後ろ盾となったのが家治だった。意次は老中にまでなったが、元は8代将軍・徳川吉宗(とくがわ よしむね)について紀州藩からやってきた身分の低い武士の家系に過ぎず、将軍の寵愛以外に確たる政治基盤をもっていなかったのである。
そのため、1786年(天明6年)に家治が死ぬと彼の権力は一気に崩壊へ向かった。

その徳川家治が病に伏せった時、奥医師の治療では一向に回復しなかった。
そこで田沼の推薦で別の医者に交代することとなったのだが、治療法が合わなかったのか家治の病状は急に悪化してしまう。再び医師を代えたが、家治が完治することはなく、ついに亡くなるのだった。

ちょうどこの頃、浅間山の大噴火や冷害による天明の飢饉が社会に大きなダメージを与え、また意次の子・田沼意知(たぬま おきとも)が江戸城内で殺害された事件などもあって、この家治の死は意次の権力を失墜させる決定打となった。
以前から意次と対立していた松平定信(まつだいら さだのぶ=彼は将軍家の出身でありながら、意次の画策で松平家に養子に出されて将軍になる資格を失っていた)や、家治の次に将軍となった徳川家斉(とくがわ いえなり)の父・治済(はるさだ)らは後ろ盾を失った彼をここぞとばかりに攻撃した。家治の死をめぐる事情から「意次が毒殺したのでは」と噂が立ったのも、意次にとってはマイナス材料だったろう。

結局、意次は老中辞任で終わるところを懲戒処分で辞めさせられることになり、かつ5万7千石の所領のうち4万7千石を没収され、謹慎処分となってしまった。田沼時代は完全に終焉を迎えたのである。
その後、定信が老中となって意次の重商主義と正反対の重農主義(農業を中心とした政策)的な寛政の改革が始まったものの、厳しすぎる政治に民心が離れ、また家斉と対立したせいで実質的に頓挫してしまうのだった。

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