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【クーデターで読み解く日本史】義憤にかられた元役人の闘争――大塩平八郎の乱

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1837年(天保8年) ○江戸幕府 ×大塩平八郎

小さな事件はありつつも長く平和と安定が続いた江戸時代も、後期に入ってくると社会不安を反映したような事件が起きるようになる。
大坂で起きた大塩平八郎の乱はその先触れ的な存在であったといえよう。

この事件の背景にあったのは1833年(天保4年)からの天保の大飢饉(てんぽうのだいききん)だった。
米価が跳ね上がり、それに便乗するように買占めが行われ、さらに米の価格は高騰していった。その結果大坂でも餓死者が続出したが、救済策は何ら講じられなかった。むしろ米価のつり上げを助長するありさまだったらしい。

これに義憤を抱いたのが、元大坂町奉行所与力で公明な陽明学者(ようめいがくしゃ。陽明学とは実践を重要視する儒学の一派)の大塩平八郎(おおしお へいはちろう)であった。
彼は町奉行にたびたび救済策を上申したが受け入れられることがなかったため、ついに実力行使を決断する。集めていた書籍を売り払って作った金銭を苦しむ人々に分けて与える一方で、挙兵の計画を伝えた。

そして1837年(天保8年)2月、平八郎は挙兵の合図として自宅に火をつけて、弟子をはじめとする同志たちを引き連れて出発した。
「救民」の旗を押し立てて進む一行はすぐに七百人ほどに膨れ上がり、また手当たり次第に大砲を撃って大坂の4分の1、3千以上の家屋を焼いたという。

平八郎らが自らの私腹を肥やすために米価を引き揚げた豪商を襲い、金銭や米を路上に散じていたところ、町奉行所がようやく鎮圧のために動き始め、一日でこの反乱は鎮圧された。
逃げ出した平八郎も潜伏先で見つかり、隠れ家に火を放ち自刃した。

事件は終わったが、その影響は小さくなかった。
仮にも幕府の役人を務めた過去のある高名な学者がこのような事件を起こしたということは、それだけ社会が危機的状況にあり、江戸幕府の統治システムが老朽化して、危機感を覚えるものが多いのだという事実を暴露したことにほかならないのである。それは一つの衝撃であった。

また、後述する生田万の乱(柏崎騒動)のような、この事件に影響された出来事が次々起きたことも特徴と考えていいだろう。

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