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仇討ちの歴史について教わりました

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時代劇でも「父の仇!」といったシーンで見ることがありますが(最近は時代劇そのものが少なくなりましたが)、かつての日本では「仇討ち(敵討ち)」として、身内を殺されたものが犯人を追い詰めて私的に(殺人による)制裁を加えることがありました。

亡き主君の仇を討った「忠臣蔵」がおそらくもっとも有名な仇討ちでしょう。
しかしこの仇討ちにはきちんと届け出を出さなければならないというルールがあったり、なかには延々と53年にもわたって仇を追い続けたケースやあえなく返り討ちにあって失敗したケースなど、意外と知らないことも多そうなので榎本先生に教えていただきました。


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そもそも仇討ちとは?

榎本先生が別ペンネームで書かれている時代小説「露払い 仇討探索方控」(幻冬舎時代小説文庫)を書かれた際に、仇討ちがテーマということでいろいろと調べられたそうです。

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まず「仇討ち(あだうち)」あるいは「敵討ち(かたきうち)」の定義から入ると、簡単には「家臣や家族、縁者による復讐のこと」を指します。
もちろんこれは現代なら犯罪(私刑)ですが、公権力がさほど役に立たなかった時代には自分の力で仇を討つ必要があった、とも言えます。物騒な話だから戦国時代以前のことかと思いきや、とくに江戸時代が盛んだったそうです。法律が整理されるまでは「仇を討つことは立派なこと」で、むしろ「仇を討たないとはなんたることだ」と処罰されるケースもあったとか。
まずはこのあたりの認識を整理していく必要がありそうですね。

また「忠臣蔵」のように、もともとの仇討ちは「武士がやるもの」でしたが、江戸時代中期以降になると庶民がおこなうケースのほうが多くなります。幕府や藩に押さえつけられた、庶民たちによる反撃という側面もあったようです。

今回教わったことでいちばんおもしろかった(そして驚いた)のが、仇討ちの原則は「公権力の許可を取っておこなうもの」ということでした。
その届出にも各種ルールがあり、たとえば「目上のもの(父や兄など)の仇討ちは許すが、目下のものの場合は公権力による処罰に任せる」とか「他藩の領地にまで行く際は主君を通して幕府の奉行所に届け出をする」とか「仇を見つけた上でそこを管轄する役所に届け出をする。これを受けた現地の役所が仇討ちのための場所を用意することになっているが、余裕がなければ現地でそのまま討ち果たして、届出をする」といったものがあるそうです。

こうした手続き・手順をきちんと踏めば、正式な仇討ちと認められ、殺人の罪を問われないとか。
いちおう事後承諾もある程度は許容されていて、後から仇討ちであることを証明できさえすれば、やはり殺人罪には問われなかったそうです。
勝手に追いかけて、勝手に殺してしまうと、江戸時代でも殺人罪になったわけですね。

有名な仇討ちのあれこれ

今回の講義では歴史上有名な仇討ちを6つ紹介していただいたので、それを振り返ってみます。

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眉輪王の仇討ち

日本最古の仇討ちといえば、古事記日本書紀に書いてある、「眉輪王(まよわのおおきみ)が父の仇・安康天皇(あんこうてんのう)を殺した」一件。
なお、その眉輪王は安康天皇の子・大初瀬王子(おおはつせおうじ)に焼き殺されて、この王子が雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)として即位した。

曽我兄弟の仇討ち

鎌倉時代には日本三大仇討ちのひとつ、「曽我(そが)兄弟の仇討ち」があった。
曾我十郎祐成(そがじゅうろうすけなり)・五郎時致(ごろうときむね)の二人が、同じ一族の工藤祐経(くどうすけつね)によって殺された父の仇を討つべく、源頼朝が催した富士の巻狩りに潜入し、ついに仇を討つが自分たちも殺されてしまう。脚色されて『曽我物語』として人気に。

伊賀越の敵討ち

江戸時代初期、やはり日本三大仇討ちの「伊賀越(いがごえ)の敵討ち」或いは「鍵屋の辻」と呼ばれる事件が起きた。
岡山藩で同僚を殺した藩士・又五郎(またごろう)が江戸の旗本に匿われ、岡山藩主・池田忠雄(いけだただかつ)は幕府に抗議したが受け入れられず、無念のうちに死んだ。その遺言と圧力で匿えなくなった旗本の元を又五郎が離れたところ、殺された同僚の息子・数馬(かずま)が仇討ちに挑み、成功した。この時、剣術の達人である荒木又右衛門(あらきまたえもん)が数馬の姉婿という立場で参加し、大活躍したことで有名。

浄瑠璃坂の敵討ち

江戸時代初期の「浄瑠璃坂(じょうるりざか)の敵討ち」は、江戸時代において最も規模の大きい仇討ちであったという。
きっかけは宇都宮藩主・奥平忠昌(おくだいらただまさ)の葬儀で、家老の奥平隼人(はやと)と奥平内蔵介(くらのすけ)が口論し、ついには刀を抜いての斬り合いになったこと。内蔵介は自決して彼の家は取り潰されてしまったため、息子の源八(げんぱち)と彼に同情する仲間たちは仇討ちを決心する。そこでまず隼人の弟を殺害し、さらに江戸にいた隼人を付け狙った。決戦の日、火消し衣装で江戸を進んだ源八の一団は七十人余りで、隼人らを討ち取ることに成功した。

赤穂事件(元禄赤穂事件)

あるいはこの事件をモデルにしたフィクションのタイトルから『忠臣蔵』とも呼ばれる。これも日本三大仇討ちのひとつ。
赤穂藩主の浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が江戸城内で吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)に斬りつけ、切腹およびお家取りつぶしとなったのがそもそもの始まり。武士には喧嘩両成敗の原則があるが、このケースでは適応されないと幕府が判断し、吉良側はお咎めなしだった。赤穂藩の浪士たちはこのことを不満に思って仇討ちの準備をしつつ浅野家復興のための工作を進めたが、お家再興がうまくいかないと知るや報復を決意。四十七人の浪士が吉良を襲撃し、その首を取り、事件後に出頭して切腹した。

護持院原の敵討ち

幕末期に、「護持院原(ごじいんがはら)の敵討ち」という事件が起きた。
天保の改革の立役者のひとり、鳥居忠耀(とりいただてる)の家臣・本庄辰輔(ほんじのうたつすけ)が御徒士(おかち)・井上伝兵衛(いのうえでんべえ)を殺害した。伝兵衛の弟・熊倉伝之丞(くまくらでのじょう)は松山藩士ながら兄の仇を打つべく江戸へ来たが、辰輔に察知され返り討ちにあう。伝之丞の子・伝十郎(でんじゅうろう)と伝兵衛の剣の弟子・小松典膳(こまつてんぜん)は二人の仇を討つべく辰輔を探し、逮捕されていた辰輔(鳥居の疑獄で一緒に逮捕された)が護送されるところを襲って仇を討った。伝兵衛の死から八年後のことだった。

どの事件も、その時代の政治事情や事件とけっこう深く関わっていて、たとえば赤穂事件は、将軍・徳川綱吉が従来の武断政治から文治政治への転換を進めていこうとしていた時代に「主君の仇を討って腹を切るのが武士だ」とやったわけで、歴史の流れに対する強烈なカウンターになっています。
将軍の面子をつぶしたことも大問題ですが、それを世間が喝采したということも当時の幕府や将軍の存在が疎まれていたということなのでしょうね。

本人たちの辛さと世間の能天気さ

最後にドラマとして盛り上がる仇討ちに対して、じっさいのリアルな仇討ちの事情について教わりました。

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まず仇討ちは、追う方も追われる方も長期間になるからどっちにとっても辛かったそうです。長いと53年目にようやく仇を発見したということなのですが、探偵もいないしGPSもない時代ですから、意外と逃げ切ることもできたそうです。

つまりぼくらが思っているよりも成功したケースは少なかったということですね。榎本先生によれば、仇を討つ前にどちらかが(事故や寿命で)亡くなったケースは成功ケースの倍というデータもあったとか。
もちろん「護持院原の敵討ち」のように返り討ちにあうケースもありますし、「伊賀越の敵討ち」のように有力者に匿われて容易に手が出せないケースも多いので、勧善懲悪的な美談で終わるのはかなり大変そうです。

一方で、庶民はわりと能天気に、ある種のエンタメとして仇討ちを楽しんだのも事実で、今回紹介した有名な仇討ちの多くは歌舞伎や浄瑠璃などのエンタメとして人々に親しまれました。なかでも曽我兄弟ものは江戸っ子にとって「正月は必ず見るもの」だったとか。昭和世代の「忠臣蔵」みたいな感じですね。

江戸中期以降になると、仇討ち情報は瓦版によって人々が知るところになったそうで、まるで現代のワイドショーや週刊誌のようでもあります。

時代劇における仇討ちシーンはドラマのクライマックスでもあり、犯人に逃げ切られたり、返り討ちにあったりするような失敗例が描かれることはまずないのですが、じっさいには成功しなかったケースもかなりあったこと、そもそも仇討ちの旅に出るには(有給休暇扱いにしてもらうために)役所に届け出が必要だったことなど、リアルな仇討ちの実情がわかりました。

これから時代劇を見るときは「ちゃんと届け出は出したのかな」と主人公の背景も楽しめそうですね。

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